藤井日達上人
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世界平和と仏教徒の戦争責任 その5

世界平和と仏教徒の戦争責任 (日本山への誤解を正す)大法輪 その5

「戦争責任を棚上げにしたまま教団仏教が語って来たのは「世界平和」でした。」
世界平和を語ることは、好いことである。世界平和は誰が語ってもよい。世界平和を語る資格のない教団というものもなければ、僧侶もない。
世界平和は一部の増上慢心の殊階級の独占論ではない。たとえ、
戦時中に責任者、特軍事協力者であっても、或いは戦争債務者であっても、現代に於いて世界平和を語るに何ら躊躇すべき所以はない。

日本山はたとえ戦争責任を棚上げにしても、また堂々と「世界平和」を語る。第三者からは或いは「日本山の恥知らず」と非難されるかもしれない。日本山は世界平和を語る
を以って、恥としない。
豪も臆する処なく、世界平和を語り、世界平和運動の先端に立つ。是が則ち日本山の勇猛心であり、日本山の精進力である。

世界平和を語ることは口業であり。平和運動を行なうことは身業である。身業口業である平和運動を行わんとする。その信念、決定は、意業である。
世界平和とは『法華経』の法門からいえば、如来寿量品の自我偈に説く所の、
我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸々の堂閣 種々の寶をもって
荘厳し、寶樹花果多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に諸々の伎楽を作し、曼荼羅華を雨らして 佛及び大衆に散ず。

である。
我此土は現代の世界の理想的青写真である。これを「娑婆即寂光」と天台大師は解釈し、日蓮大聖人もこれを「立正安国」と説かれた。この経文に、国土世間の荘厳と、衆生世間の遊楽とが挙げられてある。
『法華経』の信解品に、菩薩行の二項目が示されてある。その一は教化衆生であり。その一は浄仏国土である。菩薩行三祇百劫、ないし勤踰塵劫の菩薩行の成満の姿が、如来寿量品の自我偈の我此土安穏の経文でる。
日蓮大聖人は『開目鈔』に「一念三千の成仏に非れば、有名無実の成仏往生なり」ととかれた。
一念三千の成仏とは、その中に国土世間の成仏があり、衆生世間の成仏があり。五陰世間の成仏がある。
我が身の成仏は国土世間の成仏を離れ、衆生世間の成仏を離れてては成り立ち得ない。何となれば、
国土世間も衆生世間も、我が己心の一念三千の諸法なるが故である。
これが日本山の平和運動の原点である。
即ち平和運動の身口意三業の中の意業の信解である。日本山は衆生世間の成仏のために撃鼓宣令する。「衆生の遊楽する所 諸天天鼓を撃つ」という経文の現代における実現である。日本山は、国土世間の成仏のために宝塔を立て仏殿を建てる。「園林諸々の堂閣 種々の寶をもって荘厳する」という経文の娑婆世界の実現である。
日本山の平和運動は、迎合主義でもなく、無規定的で、無原則的法華経でもない。かくの如き『法華経』の解釈を、恣意的に仏教の解釈と非難する者が、果たしてこの外にいかなる仏教解釈を正当化することが出来ようか。
日本山が従軍中に「撃鼓宣令」した事を無視し、南京城一番乗りを大書して「戦争協力者」と罵り、戦時中に広供養舎利の経文の如く、いかに奔走したかは総て黙殺して、一言も触れていない。
日本山の生命線を押さえずして、外形皮相を見て、それで日本山を非難することは無理ではなかろうか。
第三者は疑うて謂うあろう。「もし日本山が定軌的に一貫した平和主義であるならば、何が故に一山の
青年僧を挙げて従軍僧とっして戦場に往来したか」と。然り
私は西天開教の一期の大仏事を中途半端にして、急いで日本に帰り、急いで戦場に駆けつけた。
その主旨は、前掲の丸山先生の「修羅の時代の宗教」と題する中に説かれてある。
歴史の転換期における宗教は、その時代を領導していくものだったと私は考えてきました。いま申し上げたような、いわばアクシデントをひとつひとつを乗り越えていかなくてはならない。いまからもこういうことはつぎつぎに起こってくるでしょう、それが現代という難しい時代の特質だと考えるべきだと思います。
そういう二重三重の困難を突破して行かない限り、民衆の宗教としての働きを顕すことはできないでありましょう。
宗教というものが、ひそやかに個人の心の中にあたためられ、そこに抱かれて救いを成就するという、そういう幸せな時代というのもあるでしょうが、しかし、現代のように、時代の修羅の様相を呈している激動の時代においては、個人の心の中におさまっているような、平穏な宗教からは大きなへだたりが生じてくるでしょう。そのような時代に宗教とかかわっていくことは、みずから修羅道に入って行かざるを得ない、修羅道を通過すること以外に、個人の安心もまたないだろうというのが、私の繰り返し申し上げてきたことであります。
右の先生の現代修羅道に分け入って、種々の困難を通過して、宗教の救済を説き、且つ行なうことが、実は日本山の行動であったとは、先生は思い召されないであろうか。
日本山はこの文章を拝読して驚いた。これは只事ではあるまい。先生にしてこの文章を認められたことは、忝くも高祖日蓮大聖人が先生の頭に入り替えらせ給い、日本山の正義を証明し給うた所以であろうと信じた。
南無妙法蓮華経




太平洋戦争 映像記録史 後編 1943~1945

世界平和と仏教徒の戦争責任 その4

世界平和と仏教徒の戦争責任 (日本山への誤解を正す)大法輪 その4

次に「まさか坊さん方は虐殺に加担はしなかったでしょうが、虐殺の跡始末を行ったのはこの僧団であった」と記してある。勇敢と虐殺、虐殺と跡始末、いかにも一連の連想が成り立つ。かくのごとく連想する人には日本山の平和運動も、迎合主義、無軌道無原則、恣意的仏教の解釈、畢竟して世を欺くものと見えるであろう。
日本山に対して戦争協力を問う者の目には、日本山の僧侶は、望遠鏡も拳銃も軍刀も短刀も携帯しておらぬ。いわゆる身に寸鉄を帯びない状態である。もし彼の僧侶が虐殺に加担したと想像するならば、団扇太鼓を撃つ「バチ」で叩き殺したことになるであろう。それ以外に虐殺の道具として何を想像されるであろうか。まさか兵隊の銃剣を借用したとは言わないであろう。
「虐殺の跡始末を行ったのはこの僧団であった」というのは事実である。この跡始末が戦争協力となり、戦争責任になるということが、厳正なる検討であろうか。この検討と反対に、この跡始末が、中国人の憤激を和らげる平和運動、とは評価されないものであろうか。
元来、大虐殺の屍体は面倒な手数をかけないように、大部分は揚子江の河に投げ込んで水葬した。
しかしその時の虐殺屍体は多く市中に散乱して、それを見る市民の感情はいよいよ悪化し激化するばかりであった。そこで紅卍字会会長が日本山の宿舎へ来て跡始末の協力を請うた。「先ず日本軍の許可を得なければならぬ。屍体を運搬収用して火葬しなければならぬ。それについて、日本の僧侶に葬式を頼みたい」と言うので、日本山は直ちに承諾して日本軍の許可を得、屍体を運搬収用して火葬した。
その後もしばしば火葬場を訪れて回向供養した。この跡始末が縁となって、南京の紅卍字会は日本山の仏事に積極的に協力するのみならず、自ら南京市中に御仏舎利塔建立の発願者となったのである。
しかし遂に宝塔湧現を見ることはできなかった。
丸山照雄先生は同書『宗教の可能性』中の第四項「死者と仏教」で、「虫けらのように扱われている人達こそが、実は命の尊さ人間の尊厳というものを、誰よりもよく知っている人々ではないかと私は思っています。死んだ後までも、どのような仕打ちを受けて来たか、仲間達の死を見るにつけて、死んでも死にきれないと考え続けてきた。仲間の葬式を見て初めて、これで安心して死ねる、というこの人達が現に生活しているのです。こういうことに立会いますと、自分が僧侶であることの責任を、非常に重く感ぜざるを得ないのです。」と書いてある。
この文章を拝見すれば、もし丸山先生が南京大虐殺の現場に居合わせられたならば「自分が僧侶であることの責任を、非常に重く感ぜ」られて虐殺屍体の跡始末をなされたのではあるまいか、と推察される。
そうならば先生自ら戦争協力者として反省し、その場の現状を報告するぐらいの業務を果たしていいのではないかと想われるが、いかがであろう。
南京城一番乗りをするということと、平和運動を行なうことが、本人達にとっては同一次元の問題であるのかもしれないけれども、しかし、第三者から見れば一つのものとは、どうしても考えられない。もしそれを一つのものとして説明するならば、時代への迎合としかいいようがないでしょう。
時代に迎合するためならば、南京城一番乗りもするし、平和運動もするということになってしまうでしょう。無軌道的で無原則的で、恣意的な仏教解釈というものが流布していく。そういう時代状況というものは、きわめて危険な兆候です。」・・・
日本山は時代に迎合するために恣意的な仏教解釈をして、戦争時代には南京城一番乗りもする、平和時代には平和運動の先端に立つ。こんな無軌道的、無原則的な言動は危険な時代状況の兆候である、という筋である。
御覧のように、日本山にとっては、南京城一番乗りも平和運動も同一次元の運動である。
戦争の災害を転じて佛国浄土を建設せんがための南京城一番乗りであった。引き続いて南京に掛錫中に佛国浄土建設の仕事としては、紫金山山麓の革命烈士記念塔に、御仏舎利を奉安したこと、紫金山上に玄旨本尊の石の宝塔を建立したこと、蒋介石および李宗仁の懇請に応じて御仏舎利を授与して彼らに起塔供養の誓願を発させたこと等を挙げることが出来る。
現在の平和運動と言っても、日本山は御仏舎利塔建立を目標として活動している。現在と南京戦時中と何ら変わったことはない。南京城一番乗りが勇敢なる行動なっるが故に、まさかであるが南京大虐殺加担の嫌疑もかかり、また屍体処理をもして直接戦争遂行のための活動をしたのをもって日本仏教徒の戦争責任の標本として日本山を非難された。
然るに、現在における日本山の活動には、南京城一番乗りよりも更に勇敢なる活動をしたと見る人もいる。
高瀬広居先生の『仏心(続)』に曰く、
昭和三十一年、東京都下、砂川で流血の基地拡張反対闘争がくりひろげられた。政府は安保条約と行政協定を楯に米空軍滑走路の延長を企て、強行しようとし、農民は土地収用に耐えられず抗議の闘いをいどんだのである。
その時、この農民の先頭に立ってはげしく太鼓を撃ちつづけ、「南無妙法蓮華経」の題目を絶唱する一群の黄衣の僧があった。僧たちは学生、労働者、社会党、共産党の人々よりも先に立って収用を強行する警察隊の前に立ちはだかった。警棒は容赦なく僧の肩を打ち、頭にふりおろされ彼らは黄色の袈裟と白衣とを血に染めて昏倒した。しかし、それでも黄衣の僧の群れは唱題しつづけ、暴力と化した警官に向かい礼拝することをやめなかった。
当時ジャーナリストだった私は、その凄惨な光景をカメラとマイクにおさめ世論に問うた。と同時にこの暴力に一歩もたじろぐことなく非暴力を以って立ち向かう一団の僧侶たちに深い感動を覚えた「いったい彼らの信仰とは何か、非暴力による軍事基地反対闘争の、そのエネルギーはどこから生まれてくるのか、
何故、腹を突かれ、足を蹴られ、血だらけになっても、彼らは闘いをやめないのか。」
その後、彼らの姿は、六〇年の安保闘争のデモ隊の中に、核兵器禁止の大衆行動のうちに、そして、成田空港強制代執行反対の激突の渦の中にも見られた。しかも、この僧たちは砂川の無縁墓地に宝塔を立て、成田三里塚にも宝塔を建立した。日本の宗教集団のうちでこれほど行動的で、明確な政治闘争の路線をあゆむ者は他に見られない。・・・と
南京城一番乗りは戦争最中だったが故に、勇敢と称せられた。日本山としては、こんなことを何ら勇敢などとは考えてもいなかった。また、砂川基地拡張反対闘争や、成田空港強制代執行反対闘争や、安保闘争、核兵器禁止大衆行動の中に在って撃鼓宣令したことは、平和時代の故に、高瀬広居先生の外には
誰も勇敢なる行動と認められた者はなかった。しかし日本山としては、平和時代の反対闘争こそ、真に勇敢なる行動であったと、自ら信じている。
この反対闘争には、日本仏教教団の人は、日蓮宗を始めとして、一人の僧侶も参加していない。
たまたま反対闘争に参加すれば「平和を語る資格はない」と言われ、「迎合主義、無軌道無原則、恣意的仏教の解釈」と非難される。
『法華経』勧持品には、
唯願はくば、慮ひしたまふべからず、佛の滅度の後、苦怖悪世の中に於いて、我等當に広く解くべし。諸の無知の人の、悪口罵詈等し、及び刀杖を加ふる者有らん、我等皆當に忍ぶべし。・・・
常に大衆に中に在って、我等を毀(そし)らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士、及び余の比丘衆に向かって、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん。我等、仏を敬うが故に、悉く是の諸悪を忍ばん。
とある。無知の人が日本山を、悪口罵詈等することも我等皆當に忍ぶべし、有智の学道が日本山を誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、迎合主義、恣意的に仏教の解釈する者と謂われても、我等、仏を敬うが故に、悉く是の諸悪を忍ばん。
戦争場裡の南京城一番乗りも、平和時代の砂川基地反対闘争も、世間はこれを認めて「勇敢」と称する。
法華経の弘通には、何よりも勇敢なることが要求される。日蓮大聖人は「日連が弟子檀那一人も臆し思はる可からず、乃至僅かの小島の主等がおどさんをおじては閻魔王の責めをば如何すべき」と厳訓された。
佐渡御書』に云く
 当世の学者等は畜生の如し。智者の弱きをあなどり、正法の邪を恐る、諛臣(ゆしん)と申すはこれなり。強敵を伏して、始めて力士を知る。悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人(かとうど)をなして、智者を失わん時は、獅子王の如くなる心を持てる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し。是れおごれるには非ず、正法を惜しむ心の強盛なるべし。
『法華経』見宝塔品に曰く
此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は、我即ち歓喜す、諸仏も亦然なり、是の如きの人は、諸仏の讃め給う処なり、是則ち勇猛なり、是則ち精進なり。

日本山の南京城一番乗りが、たとえ軍事行動に協力するという非難はあっても、また砂川基地反対闘争参加が迎合主義であるとの非難はあっても、とにかく、日本山は如何なる場合にも勇敢であった、という事実は一般に認められておる。これによって『法華経』を末法恐怖悪世の中に於いて「若し暫くも持つ者」
としての資格は保証される。悪王悪党悪政府が平和憲法に背き、国防と称して軍隊を作り、徒らに朝鮮の危機をかたり、米国の軍需市場をなすのに反対するがためには、「例せば、日本山が如し、是れおごれるには非ず、正法を惜しむ心の強盛なるべし」である。
・・・つづく


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砂川米軍基地拡張反対闘争

世界平和と仏教徒の戦争責任 その3

世界平和と仏教徒の戦争責任 (日本山への誤解を正す)大法輪 その3

次に「南京大虐殺は日本軍の蛮行であったとして、世界から糾弾されていますが、その南京城の一番乗りをしたのは、兵士ではなくて、日連系の僧侶であったのです。その勇敢な僧侶を輩出した僧団は、今日 平和運動の先端に立って活動していますが、その人達は、過去三十年間、戦争協力・戦争責任についての反省を語ったことがない。まさか坊さん方は虐殺に加担はしなかったでしょうが、虐殺の跡始末を行ったのはこの僧団であったということです」とある。
この日連系の僧侶、勇敢な僧侶の集団は、すなわち日本山妙法寺の僧侶の集団である。その人達は、過去三十年間、戦争協力・戦争責任についての反省を語る必要がないから語らなかった。
南京城の一番乗りをはしたけれども、それは直ちに戦争協力でもなく、戦争責任でもない。
南京の問題は、身口意三業の中では身業の問題であるが、日本山は戦争協力もしなければ、戦争責任を負うべき所以もない。

従って反省を語る必要がないという日本山の立場を、此処に判然させよう。
日本山が南京城の一番乗りをしたことを取り上げられてあるけれども、日本山が妙法五字の旗を押し立てて「南無妙法蓮華経」の御題目を撃鼓宣令したことは採り落として、どこにも書いていない。
日本山の面目は一番乗りではなく、南無妙法蓮華経の光明を射し出して無明煩悩の闇を照らすことであった。そこを取り違えたから、日本山に対する批判は全然当たらなかった。
日本山は南無妙法蓮華経の撃鼓宣令の功徳を、日蓮大聖人の金言の如く信ずるが故に、従軍中、或いは行軍しても、或いは戦場に在っても、勇猛に撃鼓宣令した。撃鼓宣令の御祈念を感謝する者は弾丸雨の如く降り注ぐ戦線の兵隊であり、これを悦ばなかった者は戦線の背後にいる指揮官連中であった。日本山は最後まで従軍する決心であったけれども、それが叶わず、中途から戦線を離れるべく追い帰えされた。
当時、部隊長の萩洲立平は私を面前に呼び出し、「戦争には軍隊の行動は秘密を守らねばならぬ、君ら日本山の従軍僧は到る処で南無妙法蓮華経を撃鼓宣令する。そのために我が軍の行動に不利を来す恐れがあるから、今後従軍を禁止する」と命令した。
私は激しいマラリア熱に冒されていた。病気静養のためにも戦線を離れるのが便宜だったかもしれぬ。一門の徒弟に扶けられて南京に帰った。
南京では日曜学校を開設して、中国の少年教育に着手した。その後、日本仏教教団の従軍僧が到着した。その中の日蓮宗の従軍布教師が孔子廟に来て「君らは何宗か」と問うた。
「日蓮宗」と答えた。「僧階は何か」「僧階はない」「日蓮宗管長の任命はあるか」
「ない」「文部省の推薦はあるか」「ない」「陸軍省の許可はあるか」「ない」
「それでは君らは日蓮宗の従軍布教師ではない」「我らは日本山妙法寺の徒弟だ」
「そんなものは日本の中従軍布教師の中にはない。日蓮宗の名をかたるニセ坊主だ」・・・
これで日本山妙法寺の正体があばかれ、特務機関に報告された。特務機関の一将校は、これを聞いて憤慨し、一夜、孔子廟に乱入して「こら売僧、よくも軍部をだましたな、成敗してやるぞ」と叫喚し、寝ていた僧侶を軍刀で切りつけた。僧侶は血まみれになって逃げ出し、かろうじて生命だけはた助かった。
生命はた助かったが、孔子廟は軍部によって追い払われた。追い出された僧侶は古林寺に移ったが、日本の従軍布教師らは軍命令をもって古林寺へ押しかけ、日本山僧侶の追放
擯出を命じた。古林寺を出るとすれば、何れかの寺院に身を寄せねばならぬ。しかしどの
寺院を尋ねえても、一様に拒絶される。一寺院住職は「これ諸仏諸経の怨敵、聖僧衆人の
讐敵なり。この邪教広く八荒に弘まり、周く十方に遍ず」の文を指して返答に代えた。
日本山の僧侶は終戦後直ちに市内の仏教寺院を訪問して親交を結び、日蓮聖人遺文録等
を贈呈していたのである。今はこの邪教が南京に充満しておる。日本山の一門は毎日、鶏鳴寺という古寺院の背後の岡に上って撃鼓宣令し、平和建設の御祈念を為した。この山の直ぐ下に南京新政府がある。日本山の撃鼓宣令の法音は、新政府には手に取るように聞こえたであろう。
御祈念の前後には鶏鳴寺に参って住持と談話した。
私は「毎日の御祈拒絶念のためにも此処は便宜がいいから、寺院内の一室をお借りしたい。せめて二天門の中にでも宿泊させて貰えぬか」と頼んだが、住持は気の毒げに拒絶した。これも日本軍の命令であった。
そのうち支那浪人と称する一類の人々の中に日本山を知る人があって、その浪人の周旋によって市中の一中国人の空屋を探してくれた。日本の軍部からは、食料その他一切援助がない。一門の者は葦の根を採って生命を継いだが、遂に私は栄養失調に陥って臥床する時間が多くなった。
やがて満州国の注支大使が南京に赴任した。この大使は昭和十五年、満州国新京に日本山が御仏舎利塔建立を発願した時の奉賛会員であった。その大使が南京政府の高官を誘って日本山の道場に参った。かくて昭和一九年、南京にも御仏舎利塔建立が発願された。
この建立に南京政府は賛成したが、日本軍部が反対して資材の供出を拒んだ。
やむ得ず、南京紫金山山麓にある革命烈士記念塔の頂上に、御仏舎利を奉安した。その奉安式にも、日本の軍部、布教師は一人も参詣しなかった。紅卍字会員等が集まった。
昭和二十年八月十五日、日本国降伏。当時私は、現在の北朝鮮金剛山に掛錫していた。金剛山の僧侶が一応日本へ帰ることをすすめたので、直ちに帰朝した。
南京には徒弟若干名が残留し、御仏舎利塔建立を発願して祈念していた。そこへ家主が帰ってきて「もし必要ならば、この家を日本山の道場に供養しよう」と言った。また別に蒋介石の参謀が訪ねて来て「君らは日本に帰らずに、永く南京に止住して、日本と中国との平和締結を援けてくれ」と言う。この参謀をよく見ると、どこかで会ったことがあるようなので、訊いてみると、「鶏鳴寺でお目にかかった、南京城の時、蒋介石は今後日本と親交を結ぶ日が来る。そのためには日本仏教の布教師を通ずることが好い。それで鶏鳴寺の僧侶の中に在って日本仏教の従軍僧と交際し、然るべき
僧を見出すようにと言う命を受けて、今まで鶏鳴寺の僧侶に化けて止住し、日本の従軍僧と交際してみた」と言った。
一応、紫金山の記念塔に御仏舎利は奉安したものの、市民の参詣には不便なので、別に南京市中に御仏舎利塔建立を発願していた。蒋介石は市中に宝塔建立を発願して御仏舎利は授与したが、台湾に渡る破目になって御仏舎利は返還された。・・・つづく

世界平和と仏教徒の戦争責任 その2

世界平和と仏教徒の戦争責任 (日本山への誤解を正す)大法輪 その2

 次に「調子いいことは、人に先んじて口にしてみる。あるいは迎合してみる。そして具合の悪いことは口をぬぐって黙否する。」云々と言われた。なる程それでは無規定的、無原則的で、恣意的な仏教解釈というものであろう。これを言い換えてみれば、戦争時代には戦争を礼讃したその口で、平和時代には平和を論議するということであろうか。
今日の平和時代には、日本山は平和に迎合して平和を論議して平和運動を行なっているが、戦争中には戦争に迎合して戦争に奔走し、戦争を礼讃した同一人にして、しかも時代に応じて、かくも反対の両極面に平然として自在に変節してよいものかと、糾弾されているようである。
ここでは身口意三業の中の口業に関する戦争責任を取りあげておる。口業は録音してないから今は消えてしまったが、文字として印刷された物は残っている。戦時中の日本山の印刷物で発刊停止を受けた物も多い。それら印刷物の中に、果たして日本山が戦争殺人に迎合した文章を見出されたであろうか。
不審 反対に調子の悪い時に口を拭わず、人に先んじて世論を批判し、戦争行為に反抗した文章を二三提示しよう。「兵は不祥の器なり」と題する文章に曰く、
皇道精神の宣布というて皇軍将兵八紘を蹂躙せんとす。燐邦近国は敢えて慴伏(しょうく)せざるものなし。妄りに軍事に従属すべからざる、かの教育宗教の如きも、又また皇軍将校の指導し企画する所となる。
神国観念は漸次、宗教的色彩を濃厚ならしめ、初めに神統天孫たる天皇を擬して現人神と呼び、次に天皇の統率する軍隊を呼ぶに神将神兵と言い、皇軍将兵の戦死者は、その尽忠報国の臨終の一念は崇高神聖なることを世に比倫なければ、是をことごとく祀って神となすべしと言う。
かくて苟(いやし)くも神社のほか皇軍のほか、天皇のほかに恭敬礼拝の対象を求むる者あらば、そは神国の人民というべからず、忠良の臣民となすべからず。
日本国は明治維新以来、外国に対して数数戦いて数々勝てり。戦うごとに勝たざることなし。数数戦うが故に、男子壮丁多くは天寿を全うすることを得ず、老幼婦人ことごとく疲労して衣食欠乏なり。数々勝つが故に将兵は驕って、ひそかに無敵を誇り、国民は戦争に慣れて青少年競うて殺生残害を職業となす。かの豚を殺し狗を殺すもの、すべて仏法の中には悪律儀として賓斥せられたるものなるに、こはまた昼夜を分かたず、ひたすら殺人奪命をもって名誉となす。
かの平和を主唱とする宗教道徳の如きに至りては、ただに現代に利益なきのみにあらず、また国家民族の発展に障りありと思い、これを軽賤憎嫉すること弊履よりもはなはだし。
詮ずる所は兵は鎮護国家の器にあらず、兵は不祥の器にして君子の器にあらず。有道の者の処らざるところなること、すでに論議の域をこえたるにあらずや。兵を讃美し、人を殺すを楽しむに至りて、我が国はたちまち神明仏陀の愛燐にはずれ、敗戦亡国の大患を招けるなり。
正法に背きたる国土に崇重せられて蹲踞するところの神社は、これ必ず悪鬼邪神ならざるはなし。
悪人を跳梁せしむる思想、良民を困厄せしむる社会は、これ必ず暗黒ならざるはなし。

この文は敗戦直後の著作であるが、敗戦亡国の原因を軍国主義にありと断じ、殺人戦争の行動を極めて非難している。

次に戦時中の「開光文」を抄録して、前後一貫した日本山の戦争反対の主張を示そう。大東亜戦争の当初「見たか戦果、知ったか底力」「何が何でも勝ち抜くぞ」「一億火の玉」「此の感激を増産へ」等々の標語を、悪筆大書して普天率土に撒布し、これ等の標語を放って、戦時下人心の指導原理と為し、以って一億一心ならしむることを得べしと謂り。
此の如きは道義を知らず、正法を聞かざる禽獣の叫喚に過ぎず。・・敵慨心を激発せしめんが為にとて、街巷店頭に漫画を掲げて憎悪せしめ、人形を立てて刺突せしむるが如きに至っては、児戯に類する呪詛、粗忽を極めたる迷信なり。正法正信無き者の作す所、愈愈出て益々識者の眉を顰めしむ。
善神国を捨て去り、聖人所を辞して帰らざるの所以なり。

軍人官僚に於いては更にも云わず。本来民衆の機関たる可き翼賛会の如きの指導文句を見るに、専ら無礼を事として言辞麁(そこう)を極む。
数々同胞の非を挙げて直ちに仇敵と称し、米英に比類し、これを大書して群集場裡に掲げし物、ただに二三のみに止まらずをや。是豈自界叛逆難の先相をなす者に非ずして何ぞや。一般民衆漸く溷廁(こんし)の臭きに狎れ(な)、店舗の売り子も輙く(たやす)顧客を罵り、路上の男女もまた総て柔軟の言辞を忘る。
乱世の音は激して怒る所以ものか。しかのみならず遍く国土に亡国の哀音有り。咽薀(えんうん)にして言うこと能わず、声を呑んで私に怨む。万民諸々の苦悩を受けて、一人の之を慰安せんとする者無し。土地として尺寸も可楽の処無きに非ずや。
この時一類慢心の学匠は、驕慢の鐘を建てて、乃公能く一世を指導すべしと謂い、言論文章盛んに報国の銘を打ち、邪智諂曲巧みに世を欺くと雖も、その為す所は強ちに仏教を破り、闘諍言諍訟を礼讃して因果を撥無し、一切世間の眼を失わしむ。
「開光文」は昭和一九年六月、東京渋谷神泉郷の日本山妙法寺に南無妙法蓮華経の玄題宝塔を建て、その開眼式の敬白文である。当時、侍従武官長の本庄繁大将が参詣された。当時は特高警察が暴威を振るい、憲兵もまた奔走した時代で、彼等がこの「開光文」を探し回って研究したようであった。
軍事行動反対の口業として、記憶するところを二三紹介しておく。

その一は満州国首都新京に於いて、二宮治重中将の斡旋で皇軍の首領達を集会した時、私は満州対策を演説した。「諸君がもし満州に永住しようと欲するならば、満人全体を殺害することが出来ない場合は諸君はことごとく、すべからく日本国に帰らねばならぬ。私は満人の皇軍に対する声を聞いたから、こう申し上げる」と。
此の演説は、皇軍首領達を激怒せしめた。直接私に危害は加えなかったけれも満州国に於ける日本山に関する一切の布教活動を弾圧した。
たとえば満州建国以来、笠木良明氏等を中心として五族協会を設立し、その会場の本尊として日蓮大聖人の大曼荼羅を奉安することになり、丁度その頃、西天印度に布教中の私にその執筆を依頼して来た。私は快諾し、数枚の大曼荼羅を拝写して笠木氏に贈った。それが満州の各大都市の協和会の本尊として祀られてあったが、この演説によって全部取り外され、私の許に送り返して来たのである。

その二は、皇軍が印度侵入策戦を始める前、岩畔参謀より軍人に似合わぬ丁重なる文字を以って、皇軍の印度作戦に対する私の意見を聞き、日本山の協力を求めたいという意味の手紙を吉野山で受け取った。
東京の山王ホテルに招待された私は、「英国が印度を侵略してから壱百有余年、今日、まさにその終末期に入り、全印度は独立自治を要求して起ち上がった。もし日本が軍事的に印度を侵略しても、目覚めたる印度を英国に代わって統治することは、五十年はおろか十年も無事に統治することは不可能であろう。日本は印度に兵を送るべきではない。印度はあ日本国を東洋の先進国として深く信頼しているから、日本国は平和的に印度の独立運動を援助し、友邦として交際すれば永く印度から感謝されるであろう」と話した。
喫煙しながらこれを傍聴していた若い参謀は煙草の吸殻を私に投げつけ、立ち上がって軍刀に手をかけた。岩畔大佐はこれを押し止め礼儀を崩さず、「御意見を拝聴して有難う存じます。しかし日本軍がもし印度作戦を行なうことになれば、日本山の御協力を頂けましょうか」と尋ねた。「もし印度作戦が行なわれる時には、私が従軍致しましょう」と答えた。
かくして軍部から、「御弟子四五名を従軍させて下さい」と注文されたので、丸山行遼師を主任として四五名従軍させた。丸山師は日本の南方軍総司令官である河辺正三大将に対面するや、「これから印度人に会ったならば、必ず日本軍は先ず合掌しなさい」と勧告した。しかし日本の軍隊には挙手注目の敬礼法が決まっている故、それは採用されなかった。因に、終戦後この河辺正三軍総司令官は、日本山の門に入って出家得度した。・・・・・つづく


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世界平和と仏教徒の戦争責任

世界平和と仏教徒の戦争責任 (日本山への誤解を正す)大法輪 その1

当世流行の言葉に「世界平和」と言う言葉がある。日本山もそれに習って「世界平和」を語ってきた。然るに最近、『宗教の可能性』(現代人の宗教10)と題する本の寄贈を受けた。その中に丸山照雄先生の「現代と宗教的救済」と題する文章があった。
その第三項に「仏教教団と戦争責任」という一項目があり、のその中『平和を語れるか』という小見出しの下に、次のようなことを述べている。
戦争責任を棚上げにしたまま教団仏教が語って来たのは「世界平和」でした。
調子いいことは、人に先んじて口にしてみる。あるいは迎合してみる。そして具合の悪いことは口をぬぐって黙否する。すべての責任はどこかに棚上げしてしまう。いわゆる未清算の帳簿というものを闇から闇へ葬って行く。残念ながら、日本の仏教というものは、そういうやり方で今日まで生き延びてきたということができるであろうと思います。
次に『近代仏教史に見る戦争協力と平和運動』という小見出しの下では、戦後三十年を経過したいま・・・日本人が平和という時は、戦争の責務をどうするかということを抜きにしては、はなはだ説得力のない話になってしまう。現に平和という言葉の内実は空洞化していると思いますが、とりわけ仏教の平和運動は空疎なものとなった。
南京大虐殺は日本軍の蛮行であったとして、世界から糾弾されていますが、その南京城の一番乗りをしたのは、兵士ではなくて、日蓮系の僧侶であったのです。その勇敢な僧侶を輩出した僧団は、今日、平和運動の先頭に立って活動していましが、その人達は、過去三十年間、戦争協力戦争責任についての反省を語ったことがない。まさか坊さん方は虐殺に加担はしなかったでしょうが、虐殺の後始末を行なったのはこの僧団であった。
と言うことです。このことはそのままにすまされない問題をはらんでいます。
少なくとも虐殺の現場に居合わせたならば、いまこそその事実を事実として報告するくらいの業務は果たしていいのではないかと思うのです。
さらに次の『仏教人生論の流行』では、南京城一番乗りをするということと、平和運動を行なうことが、本人達にとっては同一次元の問題であるのかもしれないけれども、しかし、第三者から見れば一つのものとは、どうしても考えられない。もしそれを一つのものとして説明するならば、時代への迎合としかいいようがないでしょう。
無規定的で、無原則的で、恣意的な仏教解釈というものが流布していく。そういう時代状況というものは、きわめて危険な兆候です。鎌倉の祖師の生き方を見るまでもなく、仏教を時代に生かすということは、無軌道に時代に適応することでは絶対にないと云えましょう。とある。
次に第五項「変革の時代の宗教」の中、『修羅の時代の宗教』で曰く、現代のように、時代が修羅の様相を呈している激動の時代においては、個人の心の中に納まっているよな、平穏な宗教からは大きなへだたりが生じてくるでしょう。このような時代に宗教とかかわっていくことは、みずから修羅道を通過すること以外に、個人の安心もまたないだろう。

日本山が 仏教教団の中にあって、時に平和を説くけれども、甚だ説得力のない話になってしまい、
平和という言葉の内実は空洞化し、とりわけ仏教の平和運動が空疎なものとなったのは、私の愚鈍と老耋(ろうてつ)のせいかとばかり想うておったが、そればかりではない。「調子いいことは、人に先んじて口にしてみる。あるいは迎合してみる。そして具合の悪いことは口をぬぐって黙否する。
すべての責任はどこかに棚上げしてしまう。」た所以であると、丸山先生は呵責された。
そうだとすれば汗顔に堪えないというだけでは相済まぬ。過去三十年間、戦争に関する債務、戦争協力戦争責任を決済しないかぎり、平和を語る資格もなければ、平和運動をする分際でもないということになる。さて困った。
然るに「一つは昭和6年の満州事変から四十五年、もう一つは敗戦の時点から三十年の間に、日本の仏教は何をして来たのか、それを厳正に検討してみる必要がある。日本の仏教としては戦争責任の問題がある。
一には、宗教のイデオロギーをもって戦争を鼓吹した。
二には、中国大陸において民族宣撫工作。
三には、諜報謀略工作。
四には、東南アジアにおける軍事物資調達。
五には、東南アジアの宣撫工作等。
日本の仏教は直接的に戦争遂行のための活動をしてきた」というのが、丸山先生のいわゆる「日本仏教徒の戦争責任」である。
先生は「厳正に検討」した結果、日本山の門弟僧侶の中の但だの一度も、また但だの一項目でも、この戦争責任を負う者を見出されなかったと察せられる。戦争責任が日本山にないと決定すれば、日本山の平和論平和運動に対して、無反省、無軌道無原則、恣意的仏教解釈などと非難されるべき所以はなくなるだろう。
また先生の文章中に「戦責」という文字があるが、これが「戦争責任」と同義語であるならば、日本山はまた日本仏教戦責を負うべき筋もない。
然れども、戦時中、日本仏教各宗の従軍僧等が皆ことごとく件の戦争責任の五項を犯しおった。
それを指摘したものである。
日本山も日本仏教の一小部分の教団なるが故に、自然にその戦争責任を負うべきものであると言われるかもしれない。されども日本山としては、我其存在の使命に関することになるが故に、この種の戦争責任は断じて負わない。
利口げに聞こえるであろうけれども、日本の仏教教団が戦争責任を負うようなことをするがゆえに、日本山は別に戦争責任を負わないような独自の行動を採ったのである。・・・つづく


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お師匠様とお母様

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