藤井日達上人
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崇峻天皇御書ーー怒りと敬いーー

崇峻天皇御書ーー怒りと敬いーー
今拝みました「崇峻天皇御書」という御妙判がありますが、この御妙判には崇峻天皇を批判してあります。それが戦時中は問題になりました。天皇を誹謗したと言うんであります。軍部のほうから日蓮大聖人の御妙判の崇峻天皇御書の崇峻天皇批判を取り消させたことがあります。そんな御書であります。
崇峻天皇を批判したということが、実は崇峻天皇が蘇我の一族に虐殺されました。暗殺されました。その殺された原因は、蘇我の一族が大変わがままをし、権力を奪って皇室を無視しますので、崇峻天皇が怒られました。けれども、天皇としては何の実力もありません。みんな軍隊の力も政治面の力も蘇我の一族が掌握しておりました。それでそれを崇峻天皇が憎まれました。
ある日、猪を天皇に御供養した人がありました。その猪を見て、天皇が笄(こうがい)を取り出しまして、猪の目をつつきました。そして「憎しと思う者にいつかこんな目に合わせてみたい」と言います。
そういうお言葉をなさった。腹が立ってしょうがないのを、猪を射して気を休められた。
その席に聖徳太子がおられまして、これはいけないと非常に心配されまして、そこの陛下の前に伺っておりましたみんなに「陛下の今日のお言葉は聞かなかったことにしてくれ」と言って贈り物を下さった。そして口止めをなさった。けれども、こういうことに限って蘇我のほうに伝わりました。
それで、蘇我が自分が殺されるより先に天皇を殺してしまえ、というんであります。韓国の帰化人をやりまして暗殺させました。
この歴史の教訓を引かれまして、たとえどんなに腹がたっても、自分の位が高くても、みだりに人の腹のたつことを言ってはいけない、そういう戒めをなしました。これは相手は四条金吾でありました。「あなたも腹が立ちやすい、気をつけていかねばならない」という、その例に崇峻天皇の虐殺事件の起こりを追求されたんです。
で、ものごとの平和が破れるのはたいがい口から破れます。身から破れます。心に思うたことをうっかり口に出しますと、それが人の心に逆らっていると平和が壊れるわけです。ま、人をたたけば誰でも腹が立ちます。平和は成り立ちません。
これと反対に、お釈迦様の教えをうかがってみると、一代のお釈迦様の広範なお経、その中に
最後の結論として大切なお経が法華経、その法華経は何を説いたものか、それは人がこの世に生きていくために平和な世を作らせるために説かれたものだ。
この仏教が死んだ先の事を話したり、生まれる前の事を話したりします。それで、死んだ先の事ばかり考えると、極楽に往生する。往生する極楽世界の阿弥陀様を拝むようになります。
金儲けがしたいと思うと今度はまた不動様を拝むように、いろいろとなってきます。お経にあるからといって、それがお釈迦様の本意だというわけにはいかない。お釈迦様の本意は、どう極楽に行くかとか、死んだ先の安心ができるとかそんなことではない。
釈尊出世の本懐は、人の振る舞いにてそうらいけるぞ」とあります。人間の平和に生きてゆく道を教えられたものであります。その修行、法華経に説かれた人間生活の基本は「不軽品」にある。
不軽菩薩様。短いお経であります。夜前に拝みました二十四字の「我深く汝等を敬う、敢えて軽慢せず」という。あなたがたを深く敬うという、これが四条金吾にあたえられた本意であります。敬えばどうなるか、そこに平和が成り立ちます。
あの人夫の人達が、重い砂やらセメントやら鉄筋を担いできます。この仕事をしていただけばこそこの宝塔が建ちます。宝塔建立のために現れた菩薩行です。そう思いますと人夫の人を礼拝できます。但行礼拝ができます。こちらが礼拝すると、向こうも今まではそんなことなかったんでしょうが、嬉しくなって笑顔をします。あの重い物を持ちながら、重い物を頭に載せながら合掌する人もあります。喜びの心を起こします。そうすると、仕事が重くて辛いんですけど、こちらの宝塔建立の心が通ってきます。好い仕事、尊い仕事をしているんだと自分で考えるようになると仕事が清らかな精神的な建設になります。人夫の人が重い物を持って来る前に、私らは遊びごとでありますから、道を開けてしばらくおりますと、別に説明はしませんけれど、むこうはそれが次第と判ります。そうすると喜び勇んであの重い物を運んでいくようになる。腹を立てて、今日の労働争議のような心を起こして、金をもらうからしょうがない運ぶんだというのではなくて、喜んで勇んで宝塔建立の気持ちを起こしますと、宝塔が本当に精神的な建物になってきます。
社会は人夫の話ばかりではありません。我々はこうして暮らします。一緒に暮らします。洗濯をする人があります。これは尊い事であります。お炊事をする人があります。これも尊い仕事であります。
お風呂をたてていただく人があります。これも尊い仕事であります。これなくして宝塔の仕事がはかどりません。自分でお炊事したりお洗濯を暇をかけてやっておっては工事ははかどりません。
と思うとみんな尊い仕事を自分たちの為にもしていただいております。感謝せねばなりません。
これは味が悪いのまずいのと考える代わりに、感謝していただきます。そうすると炊事をする人も粗末なものだけれどもなるだけ口に合うように気をつけていきます。ここの炊事は奇跡であります。
この人数を幾人か知りませんけど、まかなっております。そしてみんなひもじくてしょうがないという考えを持ちません。みんなも満足していただいております。そうすると炊事の費用は、日本で考えると話になりませんけれども、物を頂いて感謝していく生活は、ここも日本もかわりありません。
そうしてその食べ物が美味しかったの、まずかったのというんでない。仕事するのに何の不足なく出来る。これがお炊事の人のおかげであり、洗濯する人のおかげであり、風呂たきのおかげであります。みなこれを感謝します。そうしますと互いに苦労を感謝していけば平和な生活が営まれます。
大きい仕事をする時には、金があるからできるものではない。それから、権力があるからできるものでない。人のきれいな心が結集されないとできません。
ベトナムの戦争でベトナムが勝ちましたのも、武器の勝利でもなければ機械の発明でもありません。きれいな心で同胞を隷属的な位置から救いあげたいという一念の清らかな心に結集されました。食べ物も不自由したことでしょう。そうして大勢の兄弟姉妹が殺された事でありましいょうけれど、精神的に動揺しません。アメリカはお金でなんとか片ずくものと思いました。あの富を傾けましたけれどもかたず来ません。
爆撃で片尽くと思うて爆撃しました。それでもかたずきません。結局は60万の兵隊を送り出しても負け戦をして逃げ帰った。これは精神的に兵隊そのものが、何のためにこんな所へ来て戦争するのか判らなくて、精神的な基礎がなかった。武器ではかたずきません。金でもかたずきません。負けたのは精神的な間違いがみんなの心に表れて来ました。
日本山が本当に小さい教団ですけれども、何かと仏事をしていきますのは、精神的な力であります。精神的に働く人が何人かおります。その人の力で、日本山は何かと精神的な仕事を、政府の協力も財界の協力もなしにやっていきます。
この間原水爆禁止大会の統一問題で、いろいろな日本の平和運動家、学者達に会いました。
その人達が言うことに「日本山には何百万人教団の会員がありますか」と言います。
そうするとお弟子が困りまして、何百人なら判りますけれども何百万人では困ってしまって返事ができない。「お弟子さんは何人おりますか」これも困りました。それならしょうがない「50000人くらいおります」とお弟子さんが返事をしました、500人と言えばまだ何とか誤魔化しもききました。随分ホラになっておりますけれど、世間の人はそれくらいに評価しておるかもしれません。
5000人のお弟子さんが働いている5万人の御坊様が働いている。実は5人か10人か内緒でやっております。精神的な結合でやらねばならない。ただ、せねばならないことをする。困難を一人で背負って立つ。そうすると二人三人と何か加勢します。出来上がって行きます。
精神的なことは、出来上がって見れば、お金で買われないものが現れて来ます。日本山の仕事はそれであります。
王舎城から見えた人があるかもしれません。王舎城の宝塔を建てました。あれには随分と苦労しました。けれどもあそこが賑うので、日本に全日本仏教会といって全部の仏教徒が相談するのがありますが、それがそんならインドに寺を建てようと言って、ブッダガヤという所に土地をもらいました。そしてお寺を建てました。そのお金が五億円募集しております。そして行って見た人があるかもしれませんが、今は、インドの子供達がお寺に入っていたずらすると言って、お寺を閉めてしまいました。
人を入れない事にしまいた。御坊様が月給をもらっていたんですけれども、それももう馬鹿らしくなって、日本へ帰ってしまいました。まだ今は、お寺の形だけはありましけれども、何の利益も施しません。
王舎城は、日本山が一人で建てたんですけど、今はインドの民衆のみならず、ランカのこの仏事が起こったのも、あの王舎城の宝塔を建てたという現実を見まして、日本山のすることをここの御坊様の指導者方がここの建立を許可したんです。
好いことはみんな自然と表れて、大きい仏様の仕事に成っていきます。
悪いことも表れて災いを引きます。例えば崇峻天皇の腹を立てられた事、腹立ちまぎれに自分の思うことを述べられたこと、これが我が身を滅ぼした源、我々が仕事をすることもこの心の一つ。
これが、人を敬って、人を憎まずに、人を恨まずに、自分で仕事を覚悟をしていきますときれいに出来ます。 
世界平和を作るのも、我が身の口、手足の動き、こんなことから作っていかれます。その中の肝心なことは、人を敬うことであります。こちらが敬えば、向うも敬う心を起こします。そこに平和が作られていきます。これが不軽菩薩の教えです。
昨夜拝みました御書に「自他不二の礼拝」とあります。こちらが礼拝するとむこうも礼拝します。鏡に向かって礼拝したら、鏡の影がこちらに向かって礼拝します。あれと同じ事。
良い世界も悪い世界も我が身のこの心一つ。
(昭和52年10月26日)

不軽菩薩

【毒鼓】 折伏
 教主釈尊出世の本懐は、人間の社会生活を平和安穏ならしめんがために、人間の振る舞いを教訓遊ばされたものである。人間の振る舞いに善悪の大網を立て、善を修め悪を止むることを誓わせられた、これがあすなわち仏法の戒律である。戒律は出家沙門だけに課せられたる戒律もあれば、また国王大臣、一般庶民に課せられたる戒律もある。
戒律は外相の規則であるから特に内心の散乱、放恣を制止せんがために、禅定の法門を開かれた。禅定によって到達する所の人生向上の道程を示された。これが智慧の法門である。
分別すえば、戒、定、慧の三学もまた。信心の一念から発足し、住地し、究境する。
一切衆生皆まさに仏と成る。これが不軽菩薩の信心であった。しかもそれが不軽菩薩の智慧であった。但行礼拝は不軽菩薩の戒法である。
「我れ深く汝らを敬う、」と云うて十四字の経文は不軽菩薩の念提する禅定工夫であった。

第三次世界大戦

第三次世界大戦 
印度の高き使命も地上に戦争を否定して、衆生の生命を守ることであり、日本の高き使命も亦地上に戦争を否定して衆生の生命を守ることである、非暴力、無抵抗、不殺生は止悪の戒律であり、担行礼拝は作善の戒律である。我が身を殺しても他人を殺すな。寺院の中の礼拝よりも十字街頭の礼拝に出でよ。仏像の礼拝よりも人間の禮拝を為ねばならぬ、悪人を殺しても、其の殺す事によって、彼の悪心を止めることは出来ない、悪人を礼拝することによって、彼の悪心を転ぜしむることが出来る、是が末法悪世を救うただ但一行の宗教である。
   昭和二十六年正月七日

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