藤井日達上人
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唱題三昧

唱題三昧
御断食の御修行が明けまして、お祝いをいたします。御断食中は十四時間坐りづめで、そして、御題目を唱えづめで、お太鼓を打ちつめました。同じ事を十四時間も繰り返すと言う事は、非常に困難な事の様であります。けれども目出度く御修行が終わりました。終わりました後になりますと、今までの御修行以前の体とは体が大分作り変わりました。気分が、従ってすっかり変わりました。で、これは御断食をした人でないと、あるいは、わからないかもしれません。
私の肉体の、まあ足が少し不自由になった様でありますけれども、まあまあ、自由がききます。で、世間で言えば、まず老人の方で若い人ではないようで、それでいて、まだやっぱり若い人について、何かと変わった仕事の手伝いが出来ます。で、この秘密は、やっぱり御断食が良かったかと思われます。
私、少年の日は、わりと病弱でありました。学校も従って休むと言う日がありました。晩年になって余り休む日なんてものは、無くなって仕舞いました。これは、御断食修行が良かったように思います。皆様方も、これを勤めていただきます。皆様方の体の改造、精神の革命向上と言いますが、一段、梯子段を精神的に登る事が出来るようであります。
来月は十二月であります。一週間の御断食が、いつも例年、日本山では勤める事になりました。ここでも勤めます。私も勤めます。一週間と申しましても、やっぱり中日、ちょっと、梅湯を、それから野菜をいただきます。そうしました後の三日は、それはすっかり楽であります。この食べ物から離れて行く、欲から離れて行く、これが苦しみの様であります。
食べ物の事を、余り気にせなくなると、御断食も楽に出来る。そうして、心に色々ごちゃごちゃとした事を考える閑も何も与えられずに、御題目ばかり唱えねばなりません。
インドの言葉で三昧と言う言葉があります。仏法修行の上には、三昧に入らねばならない。あの方便品に「その時に世尊、三昧より安詳として起こって、舎利佛に告げたまわく」あの、序品の間は、お釈迦様は、三昧に入って居られました。一言も序品の中にお釈迦様の言葉は出ておりません。初めて方便品になって「その時に世尊、三昧より安詳として起こって、舎利仏に告げたまわく」これが法華経のお釈迦様の御説法の口開きであります。三昧に入ります。それは心を他の縁から断ち切って、一筋に一つの事を思い極めて行く事であります。心が一つの事を思い極める為に禅宗は座禅をします。けれどもただじっとして居るだけで眠くなります。だいたい禅宗のお坊様方は居眠りをしておるようであります。で、三昧でも何でもありません。居眠りであります。けれども、居眠りでもですね、暫く我が心を動かずに居る事は、やっぱり御修行として良い事であります。禅宗の中に茶人も出来、それから学者も出来、書家も出来、色々な精神的な人々が禅宗の中に出ました。絵も書ける、字も書ける、三昧に入る事は良い事であります。
今の学校はただ、耳から入る、目から入る学問だけで、我が心の中に一つ、光を灯すという事がありません。それで自己を失って仕舞いました。自分が何やら分かりません。ただ見る物に惹かれ、聴く物に動かされて、自分と言うものが、主体性のない人間になってしまう。
三昧に入る、入らねばなりません。十四時間、ま、居眠りをしましょうけれども、御題目の中に眠って居ると、御題目から離れません。太鼓の響きの中に眠って居る。それで、その自然、法華経の三昧に入らざるを得ません。他の事、考える事も、見る事も出来ません。それがどうも、苦しい様であります。何か、キョロキョロして、第一外に出ることが非常に開放されたように嬉しくて仕方がない。これが間違いであります。この心を静めて居る事、ここに、心が静まるところ、そこに私等が自ら喜びを求めて行かねばならない。気があちらこちら散る事が、喜びであってはいけません。
さて、その法華経を修行するのに、様々な道がありましょうけども、私等に残された与えられた道は、声も惜しまず唱えるなり、南無妙法蓮華経を大きい声して唱える事であります。で、口の中で念じて居れば、同じ事だと思うのであります。そうすると、もう一つ悪いのは、御題目は何べん唱えても同じ事なんだ。それで一ぺん唱えればいいんだと言う、そう云う邪見な事を言い出す者、考える者もある。御題目の中に私等が生きて居る。そう云う考え方に変えていきますと、この身さながらその御題目の一つの現れた働きになります。尊いお仕事が出来ます。で、この日拝みました御妙判、我が身法華経の行者ならば、と言う前提の下に、そうしたならば、霊山の教主釈迦牟尼仏、宝浄世界の多宝如来、十方分身の諸仏、それから下って世界創造をした梵天・帝釈天王、それから海の神様、龍神様、何もかもですね、この法華経の行者の周りにおいでなさると言う。それは水があれば魚が住む、木があれば鳥が来る、法華経の行者のいます所に、仏様も、それから龍神も、何もかも皆集まって来ます。そうすれば「この所は、諸仏、菩薩の住み給う功徳聚の砌なり」と、功徳聚、戒壇であります。仏様を初めとして、皆、行儀良く居並んで居る姿であります。
どっか集まった所、それが具体化しましたものが、この道場となり宝塔ともなります。
根本は「我が身、法華経の行者ならば」その前提がいる。我が身、法華経の行者、その我が身法華経の行者、それは、えらい遠い所にあるのでない。まず御題目を唱える、そこにあります。そのお題目を唱える中から、どこまでも深い法門が展開して行きます。それと共に、この社会的な、現実的な様々な活動が、お題目を唱える中から生きて来ます。出て来た例が日蓮聖人様にあります。
(昭和五十二年十一月四日 仏足山)

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