藤井日達上人

我が一代

我が一代  
 
 昭和五十九年十月十一日 立正大学講堂・東京 (一〇〇歳)
本日は不思議な御縁で、私もここえ参ることができました。私は元の大崎の日蓮宗大学の時の第一期の学生であります。その頃から「大崎學報」とか云う雑誌を編纂して、少しずつ自分達で読んでおった。その私が、立正大学の初めの日蓮宗大学を卒業すると、「後もう少し勉強したい」と願いでましたが、大学院という組織になれば、私一人のために、そんなこともできないから、「どこかよその学校に行って学問して下さい」。それでやむをえず、よその大学の大学院の学生となって勉強いたしました。
そのために、初め浄土宗の大学院、これの中の課目に天台の【法華玄義】等がありました。それはよいけれども、また【往生要集】のなんのという、あちらの法門のもつかねばなりません。そんなことをして、とにかく卒業いたしました。しかし、その次にまた是非に古来、日本に伝わった仏教を習い伝えておきたいという希望から、出家の身として、いろいろ教えてくれる所、真言宗の大学、その他の所に習いに参りました。
さて国家の制度が、御坊様も兵隊に行かねばならぬ。私、それで兵隊に行ってきました。逃れる道がない。陸軍歩兵少尉であります。かくのごとくにして、たくさんの年月が経ちました。禅宗のお寺へも参りました。それから真言のお寺へも参りました。その他、個人の名僧・知識といわれる人も訪ねてまわりました。山の中も何もいといません。ただ笈を負うて書物を持って習ってまわりました。かくのごとくにして学問は、ほぼ習い得るだけ習いましたが、年が三十を過ぎます。
この上は衆生教化に働かなければならぬ。衆生教化をどう踏み出すか。我がことながら、これに毎日悩みました。一足踏み出し損なうと生涯の出家の方針が裏切られてしまう。何とか良い踏み出しをしたいと思いました。
少しものも覚えましたから、学校の先生、それから寺院の住職。寺院の住職は大崎の大学を卒業すると、すぐにその誘惑がかかりました。けれども私、出家の小僧さんの生活をする今の寺院の生活で、法を弘めるなどということはできない。
皆様方は、寺院に生活に入られたかも知れませんが、法を弘めるには、身を自由に位置に置かねばならない。檀家まわり、お葬式、お彼岸、こんな事でまわっておってよいものですか。今までに何を習って来たのか。こう思うて二、三年の間、学校でものを習うのと違って、我が身が人生の第一歩を踏み出すのに迷いまして、决定しきりません。命にかけて、これを決めたい、誤らざる人生の第一歩を踏み出したいと思いました。
まず第一に、近江の国の比良山の頂上に「八淵の滝」というのがあります。大理石の岩を崩して滝がかかります。その水がすぐにあふれて、次に流れますと、流れた水がまた、すぐに淵になります。かくのごとくにして、淵が八つできております。その頃、誰も行く人がなかったのですけど、私、そこで初めて、我が今後の生活のあり方を決めるために、滝壷で一週間御断食をして、生命を捨てる覚悟になりました。この滝の第一番の上の滝。秋彼岸でありましたが、そこに別に広場なんかありません。渦を巻く底しれない深い滝壷と、そのそばに、くだけた石英岩・砂利が少しあります。
一週間、休む時はその砂利のうえに座っておりました。かくのごとくにして死ぬかというと、とうとう滝壷で死にもせず、そんなら決まったかというと、決まりもしない。これは大変だけども、一週間たったから、その滝壷を下りました。そうしてそれからは、あちこちと、そんな滝にかかっては、我が身の運命を定めようとしました。
今はこんなにたくさん着飾っておりますが、その時は木綿のうすい肌着を一枚着て、蠟燭もなければ、電気もありません。真っ暗がりです。その中で滝に入ったり、あがったりっしておりますうちに、下は体温で、上は水がかかって、一枚の肌着に青黴(あおかび)がはえました。決まらないものは仕方がない。そこを下りる時に振り返りますと、そこに高い楼門があります。楼門に金文字で、「文武の両道 内敵を防ぐ」という八字があります。燦然と目に映りました。私一代の中で、内敵ー内輪から我が仏法が崩されましたが、外敵からは崩されません。
皆様も、これから大事をなさる時、「文武の両道」 「内敵」を防いでください。「内敵」の中の最後の問題は、我が五欲の執着であります。日蓮宗門を衰微沈滞させた原因が、ここにあるようであります。
「而も憍恣の心を生じ、放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちます。」(法華経如来寿量品第十六)
さて、それから先にまた、あちこちと巡るうちに、ようやく三十二歳の秋がせまりました。三十二歳は御祖師様の立教開宗の時、私は三十三歳にして自分の道を伝えに立つ。かくのごとく考えておりましたが、その時に能勢の妙見様に参りまして滝にかかると、今度は「桃尾の滝」というのがありました。天理教の町の上でありますが、そこに行って、もはやここを先途と決めねばならない。自分でその覚悟で、そこで一週間た滝にかかってお断食をしました。
そこにありました古い時代の小屋に寝泊りしました。そうして最後の日、夜もすがら御題目を唱えて法要を勤めております時、下からトントンと太鼓を撃って山道を上がって来る人がありました。何の変哲もない、一人の道を求める行者といいますか、出家でもない、そんな人であります。
俗人の出家の人が上がって来ますから、私わざわざ道に出てー夜中でありますー「あなたはどなたですか」とお尋ねいたしました。そしたら何の躊躇もなく「上行菩薩」と申します。驚きましたが、上行菩薩の衆生教化の道を学ぶことに致しました。背中に笈摺を背負っております。「笈摺の中に何がありますか」と聞くと「釈迦牟尼世尊を背負っております」そうして私が気が付きました時には、何の遠慮もなく私の前を通り過ぎて、向こうの山の手へ参ります。
そこで私の方針が決まりました。決めねばならない十一月の末であります。
皆様、私は一代その夢のようなことを信じて暮らして来ました。その跡を継ぐことが決まりますと、今まで習った真言も浄土も、その他の八宗の書物、奈良の法隆寺の勧学院で倶舎・唯識論を習いましたが、何もかも皆捨ててしまいました。
上行菩薩の跡を踏むことが決まった。やがてそこから奈良に出まして、奈良の信者の宅でまた、笈摺を作ってもらって、それに毛布の半切りと、コウモリ傘一本、こんな支度でまわりかけました。その時にまず京都の大本山の各御霊場をまわりました。いよいよそれもすみました。
それから上京いたしまして、衆生教化の第一歩を、日本国の東京の二重橋の前で座り込みまして、一週間のお断食をして御修行しておりました。おうすると警察が「お前はいつ帰るか」と。「帰りません。ここで一週間のお断食をして御祈念します」。「それでは一寸相談せにゃならん」。上の方と相談しました。ところがあたかも紀元節という祝日が中にやって来ますから、警視庁から「ここは、大勢の日本の文武の大官が参るのみならず、外国のお客様も参るから、おってはいかん」と追い立てられました。
衆生教化の始めは「数数見擯出」の第一歩であります。それでそのその旗を立てたまま、あの宮城のお堀の外を一週間まわりました。その時、私自らが書いた絵葉書があります。【毒鼓】という書物に残っております。警察官から叱られて、太鼓を叩いて宮城前に立つ姿であります。これが私の出発点。
これがすんで東京の信者のお宅に泊まっておりますと、昔の日蓮宗大学の同窓の人々が皆、先生になっておりましたが、私が大崎っを出て十年間、各宗を習い巡って最後、玄題旗を立てて歩く、変な一人のお千個寺になったことを聞きまして、「藤井君のやり方は、時期を半世紀間違えた」。そういう話です。
私は他に何も希望しませんけれども、私が学問、学問と次々に日本の古来の仏法を習いましたが、皆これを捨ててしまって、玄題旗一本立てて太鼓を撃って出たことに、大崎から一人くらいは「どうしたことか」と言うてくれる人があることを、実は期待しました。それがありません。
その点、大崎の日蓮宗大学につくづく愛想をつかしました。その大学は、寺の住職を育てる学校なんだ。そうして中の生活は、末法の時代とはいえ、一番手足の枷になる家庭生活。これでは、こういう人々は、こういう学校は、もう私の苦労して求めた道を共に行けない職業学校。
そうして田中智学、その他、立正佼成会、元御坊様があんな変な還俗をして、在家のままに行った。それではこの末法に、御祖師様の仏法を弘めるということも、到底不可能であります。
私は、この大崎の学校に愛想をつかし、大崎の同級生に愛想をつかしました。
それで、その後私は一度も大崎に便りをしません。我が母校でありますが、もはや、我が行く道とは違った学校と思いました。
御祖師様の御妙判によると、今や【西天開教】ということが実現せねばならない。その話は大崎にはありません。閻浮提内広宣流布が法華経の中の明文である。今そのことは大崎にはありません。こういう訳で【大崎學報】という雑誌を、その後一冊拝見しますと、御祖師様の御宗旨ではないと考えました。
私の夢みたものは、何も求めもせず、太鼓を撃ってまわることだ。今は西天開教を完成し、閻浮提内広宣流布の大願も、実現しつつあるようであります。
かくのごとく考えて、大崎は母校であり、【大崎學報】は、同窓会の各自の研究と信仰の発表であります。私はこれを我が道と違ったものと考えた。曽て手にいたしません。
私が大崎の卒業生であり、そうして何の障りもない同級生でありながら、あの諸君の【大崎學報】に一編の文章も載せたことがありません。縁が離れると、こんなふうになる。何千人大崎を出たはしりませんが、あの【西天開教】に間に合いましたか。閻浮提内広宣流布に間に合いましたか。
さてこれだけではすみません。もう一つ、古人の詩に「共に末法に生まれて師に会わず」という句があります。末法という時代は、正しい秩序も何も皆、壊して暴力、人殺しさえすれば、それで通る時代であります。
そこに行われる社会の相は醜悪・殺生。殺生も国家をあげてやっております。世界をあげて人殺しの方法を研究しております。これが末法の姿です。さてこれを救う道があるかというと、もう一つ考えねばならない。その道がどこにあるか、今。人は探しております。その時、私は、御祖師様から六百年遅れて、末法の時代に生まれました。
当時の仏教信仰は娑婆を厭い「厭離穢土・欣求浄土」という言葉で現されている。この娑婆世界は、どうにもならない悪い所、早く死んで極楽に行きたい。それには日蓮大聖人様は「そうでない。この国土こそ本土だ。濁っておるのは、人の心の間違いだ。この間違いを正すんだ。」「御釈迦様が、はるか末法に【三大秘宝】を残して、上行菩薩を再誕せしめ、弘められる」とあります。
今やこの法が弘まりつつあります。皆様方の目に見えるでっしょうか。仏教のないヨーロッパ、仏教のないアメリカに、どんどんと、本門の教主釈尊をまつる本尊の宝塔様が現れつつあります。「そんなことが今日、科学兵器の発達した今日、何か宝塔が建てば、それで科学兵器の災いをのがれるか」という疑問がありますけれども、この疑問に答えるものは、もはや理屈ではない。
「時のしからしむるのみ」その時に指導者として仏の使いが出ます。この人が弘めます。ところで、もう少し言いますと「日は東より西へ入る、日本の仏法、月氏へ返るべき瑞相なり」。御祖師様から六百年遅れたお蔭で、私はこの瑞相に先がけしました。
皆様も、今からインドで太鼓を撃てば西天開教となります。それからまた、御寺だけを作れば西天開教になるかのごとく考えると良くありません。
「日本の仏法、月氏へ返」時に、インドは広大な面積、人口をもって独立しました。その時、マハトマ・ガンジーは「日本の仏法の三大秘法をもって、インドの平和国家指導の基点にする」と言って、仏教復興を発願いたしました。
この時が、御祖師様の西天開教の日でありました。私、それに会いまして、その時にインドに参りました。

私は「行かなければいけない」と思いましたが、一人もついて行きません。日蓮宗からも、誰もついて来ません。その時に京都の大本山妙顕寺貫首・河合日辰猊下が、きれいな出家の風格を具えておりました。それでその中で育った三人の青年達が、西天開教について行きまして、一人はワルダのガンディーのおる塾に、一人はビルマの開教に、一人はランカの開教に、各各名声をふるいましたが、日蓮宗門からは、誰も出ないのはさておいて、日本山も、お寺があり、宝塔があり、それから家族があり、ついていけません。ついて行けないことは時をあやまりました。
(ここで主治医より中止の勧告があり、法話が中止されました)


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リュウキュウコスミレ花    

菩薩行の戦争

菩薩行の戦争
 日本の戦争の中に、松谷大尉の戦争が一つだけ本当の菩薩行の戦争をされました。日本国も、この方針について行くことができたならば、この人の指導を受けて、日本の軍隊が動いたならば、アジアはおろか、世界の平和は、たとえ日本が軍隊を動かしても、戦争しませんから、世界はこれに風靡されるはずであります。悲しい事に、西洋流の戦術ばかり考えておりました日本の軍隊は、この松谷大尉の指導を仰ぐ事ができずに、結局、血を流すことにおいて、西洋と何ら変わらない戦争に入り込ました。
今のアメリカが、ベトナムでやっておりますように、機械力とか、作戦行動とか、そんなことばかりやって、無慈悲な戦をしましたから、日本国は無残にも破れてしまいました。
 (昭和43年 天鼓)


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コスモス

立正安国の御祈念と不惜身命(横塚上人ジャフナ法難)

立正安国の御祈念と不惜身命(横塚上人ジャフナ法難)

南無妙法蓮華経 スリランカーの皆様が誠に考えられたお仕事は、誰も想像もできない立派な御修行でありました。これは大統領の命に背いてやりました。けれども所詮はランカーに平和を作りあげる、その根源を自いみいだして動かれました。ほんの二・三名の人にして良く誤らずにこの大仏事をなさいました。
ここでまた一段落つきましたが、この日本山の方針では我々が次から次とランカーの前途のために身命を捨て、屍を並べていくその内に仏事が出来ると考えました。私もその方針を一応認めましたけれども、昨10日の昼過ぎにランカーの治安大臣が直接、「日本山の最高指導僧にもの申したい」と申しました。電話をもって尋ねてきました。
それでランカーの日本大使館に問い合わせましたけれども大鷹弘大使も不在で間に合いません。直接その話を聞きました。「ここでまた、あなた方の一門が次々に屍を並べてランカーの永遠の平和を作ろうとしている。これも一つの方法である。しかし国際的に見てスリーランカーは仏教国である。
他の仏教国のお坊様がランカーに渡って一人ならず犠牲を払うということは、ランカー政府も耐えられない問題となった。」
この一人のお坊様の虐殺が日本でも大きく取り上げられましたが、これは世界の問題になりました。いまだ世界の仏教徒の中で、他国の平和の建設のためにと言って犠牲になった例はありません。
これは一人、日本山のお坊様の覚悟であります。この後、二・三人と続いてここに菩薩行を起していくことは、日本山のお坊様として覚悟を決めてかからねばならないことと考えかしたが、治安大臣のお話では、何とかここしばらく日本山の開教をジャフナから引いてもらいたい、と申します。
ようやく重大さを世界がここに目をつけて驚いておる姿を見ました。
それでこの人も交えて、ランカーの仏教復興・宝塔湧現を促進することになるでしょう。
おりもおり、南インドのコモリン岬の仏事が起きました。南インドは竜樹菩薩の大乗仏教弘通の本家であります。そこからまた大乗仏教の興隆が起るに違いない。そのために日本の方も力を入れて、タミル族の仏教興隆に協力しようという話が声高く叫ばれるようになりました。
ここで菩薩行といっては、日本山は屍を並べてこの大仏事を完成しょうと思いましたが、国際的に考えるとスリーランカーは仏教国、その仏教国で仏教僧侶をしきりと犠牲にたたせては、ランカーの面目もたたない。それでここはランカーの大統領以下の思し召しとして、しばらくジャフナの開教を取り止めて、以後、政府の、自分達の手によって両民族の融合に努力するという申し出を信じてまいりましょう。
これも日本の方も世界の方も、一人の犠牲によってかくも世界を振動させました。
今後は南インドのコモリン岬に宝塔を湧現させます。そこにタミル族の仏教信仰を養い育てて、それをランカーのタミル族のところに送って、タミル族自らランカーに宝塔を建てて、シンハラ民族と一諸にらい礼拝供養するようになったならば、なお平和にことがすむ。けれどもこれには多少の時間がかかる。その時間を日本山が補ってタミル族の信仰を養っていこう
という腹が決まりました。そこでここではランカー政府の政策、面目を生かしてゆきます。治安大臣のお言葉では政府の面目のためにもジャフナからこれ以上犠牲者をださないようにして頂きたいと申しております。
いまや世界の人類の頼るところは、この本門の教主釈尊の三大秘法だけ。これは説教せずに時が来て、広まります。あのキリスト教国のロンドンに一人の反対者もなく、宝塔建立がすすみ、市民がみな賛成して協力者になっております。この日が目に見えます。
精神的なものが世界を開いております。これを信じて少し手間がかかるけれどもスリーランカーの国家の政策の成功によって、ここの難局が一応治まり、そうしてタミル族の本場から仏教復興の使いが渡って協力して、ここが助かる道があくかと思います。
それで日本山のご出家の道は、横塚上人一人を死なせただけで我々は死ねないのかと思うでしょうが、
しばらくこの一人の死というものが、どんな大きい力を、いま世界に示しておるかを見なければならない、滅びない仕事、動かす力はこの横塚上人一人の犠牲で、ことが足りると思われました。
あなた方はまた死に場所をどこか探して下さい。日本山は有難く世界の平和建設の基礎になって追っていかねばなりません。
一人の犠牲に対して耐えて下さい。身命をここでは忍んで永らえて下さい。そうしてまた死に場所を探して下さい。本当に僅か三十二歳、この世界を動かしました。誰が聞いてもこの尊いスリーランカーの平和建設の基礎を作りました。
いまここに、この人の犠牲がやがてまた他に開くでしょう。尊いことでした。有難いことでした。
あなた方の命の捨て所、ここしばらく我慢、政府の政策を助けていくように致します。時がいま来たようです。日本の方はタミル族の仏教復興を助ける気になり、世界中がこういう気分になって来たのです。あなた方も臆病ではない。ただ死ぬる場所をもう一つ選びなさい。有難いことです。
 ------------中略 ----------
可哀想に若くして身命を捨てました。これもやむを得ません。私も年寄って動けないのに、まだ生きておる。こういう者もある。これもまた仕方ない。
 (1984年11月11日 熱海道場)


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横断幕後方中央が横塚上人

正法

【日蓮聖人様高橋入道殿御返事に曰く】
 「まして、一日も我が方とて心よせなる人々は、いかでかおろかなるべき、世間の恐ろしさに妻子ある人々の遠ざかるをば、ことに悦ぶ身なり、日蓮に付いて助けやる方は無き上、僅かの所領をもめさるるならば、仔細も知らぬ妻子所従等がいかになげかんずらんと心苦し」以上
日本山もまたまたかくの如し、日本山に入りたりとて、扶けやりたる方は無く、創価学会などに悪口せられ、暴行脅迫せられん時、仔細も知らぬ妻子、眷属が、いかに嘆かんずらんと心苦しければ、信者、壇越の遠ざかるをば、殊に悦ぶ身である。
創価学会の会員獲得のごときは、高祖大聖人の御本意に叶うゆえんはない。正法は、多数をたのむ必要はない。
草は多けれども、大内裏の柱とならざるごときものである。

桃尾の滝の霊夢

【桃尾の滝の霊夢】
 私が日本山を開いたことになりますが、非常に苦労しました。勉強をして仏法の事を習えば、何か解るかと思いましたけども、少し覚えることもありますが、我が一生の方針として間に合うものはありません。
三十三歳で立たねばなりませんけど、その以前に、出家として、御祖師様のお弟子として生きて行く方針が立ちませんので、初めて、あちらこちらで滝に打たれたり、御断食をしたり、山に登ったり、さまざまなことをしました。
大和の国の天理教の上の方に、桃尾の滝という、昔、奈良の高僧が道場を建てた滝壷があります。秋の暮でありましたが、さっそく三十三歳を迎えねばならん時、御断食をしてその滝にかかり、一心に御祈念いたしました。
そこで初めて不思議な霊夢を感じました。変なことのように聞こえますけれども、夢で上行菩薩に会いました。
上行菩薩が、背中に子供を背負って私の所に歩いて来ます。それで私が「あなたはどなたですか」と尋ねました。「上行菩薩です」。「背中の子供は誰ですか」と言う。「お釈迦様です」。御釈迦様を背負って団扇太鼓を撃って歩いております。それっきりであります。私、真剣にこの夢を霊夢として受け取りました。
断食明けに、奈良のご信者が迎に来てくれ、伴われてその家に行って、さっそく「私の決心がつきました。これから歩きまわります」。笈摺(おいずる)と申して、桐で長方形の箱を作りまして、それに御妙判とか、少し着替えも入れました。宿のない時、晩にどこかで休まねばなりません。一枚の毛布を半分に切りまして、笈摺の上に乗せました。こうもり傘一本、脇に立てるようにしました。
背中に背負ってまわります笈摺ができますと、表にお題目を認めまして、私の名前も認めます。それから、左右の両脇に「勧持品」の「聚楽・城邑に、其れ法を求むる者有らば、我皆其の所に到って、仏の所属の法を説かん」という一偈の経文を認めました。
これが、日本山の道を踏み開いた私の初めての出で立ちであります。
「聚楽・城邑」に、町でも村でも「法を求むる者」があった時、その人を訪ねて、仏様から付属されたお題目を、広く一切世間の人に説く誓願を、今日まで一生修行してまいりました。「勧持品」の偈の経文が、日本山を創り出しました。
皆様方も、その御弟子であります。今日、日本山が開けておりますのは、歩く者ができたんです。歩き廻るんです。
 
(昭和五十八年九月十八日 オーストリア国ウィーン道場)


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台北 花市 

マヘシ、コタリ君へ

【マヘシ、コタリ君へ 】   三月十六日
剣を採れば必ず勝たねばなりませぬ、勝算なき戦争をする程悲惨な行動はありませぬ。―――――中略――――――
戦争は消耗の最も甚だしき賭博であります。たとい戦勝しても、軍事負担は、全国民の心を離反せしめます。況や敗戦する時には、指導者は国民に呪われねばなりませぬ。

陀羅尼品「乃至夢中 亦復莫悩」

陀羅尼品「乃至夢中 亦復莫悩」
只今拝みました陀羅尼品と申しますのは、法華経の中で二聖二天十羅刹女と申しますこの御文の御人方が後の世に法華経を持つ人を守護すると言う誓願をお釈迦様の前で述べられました。その誓願の言葉であります。それを陀羅尼呪と申します。で、法華経は支那の言葉に漢語に翻訳されました。皆、「自我得仏来」も漢語でありますが、漢語に法華経全部を翻訳されました。けれどもこの陀羅尼呪だけは翻訳されませんで、霊山会上で二聖二天十羅刹女が説いた言葉の音のまま伝わって来ました。それでこれは漢訳しません。漢訳すれば多少の意味がありましょうけど、元来これは漢訳すべきものでない。漢訳されておりません。霊山会上の発音がそのまま今日に伝わっております。
それでこの陀羅尼呪を要文抄の中に取り入れましたのは、最後の言葉に「乃至夢中 亦復莫悩」と言う言葉があります。所詮護るけれども夢の中でも悩ます事は許されないという。夢の中で襲われた経験のある人があるかもしれませんが、夢の中で襲われる事があります。怖い夢を見ます。その悪い夢、怖い夢を見せない様にする。怖い夢をみせるのも、様々な鬼神達やら羅刹。目には見えませんけれど、そんな存在がありまして人を悩ませます。それから夢の中でも法華経を持つ者を悩ましてはいけないとそう言う言葉がありますが、十羅刹女がお釈迦様にこの陀羅尼呪を説いて、説いた趣意を説明しております。で私達は夢を見ます。これはどうにも良い夢を見ようと思うても見られるものでない、その中に悪い夢を見る事が誠に困ったものであります。けれどもこれも仕方がない。夢というものは自分一人で見る様でありますけれども、そうでもない。近くこの頃、王舎城に内地から御骨を納めに参った大阪朝日新聞の記者があります。そのお父様が比叡山の大僧正であります。この御人が房州清澄の仏舎利塔の落慶法要の時に比叡山を代表して参詣なさいました。それ以来日本山の宝塔建立を随喜されまして、ネパールやインドや各地にお参りなさいました。その時に何時も朝日新聞の記者をしておりますお子達が随身して居りました。そのお父様と言うのが亡くなります時に、私の御骨を霊鷲山に収めて下さいと言って遺言をしました。それで一周忌に成る前に納めに来られたのであります。ところが不思議な事にその御臨終の御遷化の朝ですね。御信者の何人かの特別な御信者が夢を見ました。同じ様な夢をみました。その比叡山の大僧正が旅姿をしました。そして、夢の中に現れました。私もこれからインドの霊鷲山に参って来ます。それは一人でなくて何人かの御信者が同じ夢を見たのです。そうなりますと、夢を見せる別の存在があったのです。これが幸いにそんな御上人様が御信者に夢を見せたのであります。別れの挨拶をなさったのであります。この事を考えますと夢もこちらが見たいから見るのでもなければ勝手放題にでたらめに見るのでもない。時あって外から夢を見せる。夢に現れてくる世界があります。その夢の中でも法華経の行者を悩ましてはいけないと、そういう言葉があります。私等が法華経を持つと言う事の力強さを、お経文の力を信ずる時、現れて来ます。
で、夢でも猶守られて居る。親が子供が眠ったと言っても側でやっぱり気を使って守っております。あのように我々が眠った後までも悪魔と言う言葉で言えば悪魔が悩ます事を許さないで守って居る、そう云うことなんです。この法華経の文を信じて床に着きます。安らかな夢を見ねばなりません。それから今日はこのランカの暦で満月の宵だと申します。けれども不幸にしてお月様が出ては居りましょうが雲が遮って拝む事ができません。明日が日本の暦で満月であります。明日は拝めるかも知れない。私が一代の中で満月の日をしばしば迎えて拝みました、拝みましたけれども、あの印度へ渡りまして、カルカッタの道場がほぼ完成しました。あらまち建ちましたので満月の月見をヒマラヤ、雪山でしたいと思いました。雪山のダージリンに参りました。仏教のお寺がありますからそこに泊めて貰って一人でお月様を拝める所まで少々山を登りました。丁度お月様を拝む事が出来ました。これはどうも広大な銀世界にお月様が一つ照らし渡りました。この姿が一代の中で満月の最も記念の一夜となりました。皆様方も良い満月を見て頂きたい。
(昭和五十二年九月二十六日 仏足山)

陳 情 書

陳 情 書       仏教僧衆  藤 井 日 達

        惟時昭和二十一年八月六日
 我教主釈尊拘尸那域に於て入滅度の後およそ一百年にして中天竺摩訶駄国に阿育大王誕生し給う。大王躰軀麁剛にして精神もまたすこぶる猛烈なり。少年の日より戦闘征伐を好み、殺生残害を喜ぶ。国民にしていやしくも制を紊る者あれば、これを捕えて極刑に処し、近親隣里ながら諍を構えて直ちに征服し、その勢力日に強大となり、諸の大小の国王等敢て畏服せざる者無きに至りぬ。
大王これに於て悪心いよいよ熾にして、人民日夜安穏の想を生ずること能わず、遂に憍慢心増上して武威をもって一閻浮提を統一せんと欲する大願を発し、朝夕に兵を精にし、武を練りて寧日無し、たまたまこの時如来の遺弟子に夜叉尊者と称する大阿羅漢あり、阿育大王を教化せんがために独り王宮に詣り、大王を諫めて曰く。
 「仏法に不殺生戒を説く如来の制戒の中に、殺生をもって一切罪悪の中の最も重きものとなす。下は昆虫より中は六畜に及び、上は人類同胞の生命を絶つ者はその罪悪の報酬として死して未来世に地獄の火焔に焦がさるべし。大王しきりに戦闘を起こし、人畜の寿命を奪うことその数量り難し。大王他日命終の日まさに地獄に堕ちさせ給うべし。彼の戦闘によりて得るとろの勝利は、必ず他の国王人民の怨恨を買って刑罰をもって慴伏せしむれば民の不平を募らしむるに過ぎず。すべからく諸の悪法を廃し戦闘を止めて、一切の人民安楽にその生を楽しみ、隣邦平和に交を厚う也させ給わば、大王の将来はなはだ慶福来らん」と。
 阿育大王これを聞いて逆鱗斜ならず、この夜叉尊者を捕えてもっとも惨酷に処刑せんと欲し、試に問いて曰く。
 「汝地獄の火焔を説く、朕未だかつて斯の如き談話を聞かずはなはだ希有となす。朕がためにさらにくわしくこれを説け」と。
 夜叉尊者即ち八大地獄の相貌を説く中に曰く。「大火坑あり臭煙蒙々、火焔乱れ舞うが如し上に一条の鉄線を張る、罪人に重担を負わしめて駈りてこの鉄線を渉らしむ等云々」。
 大王掌を拍して曰く、「善哉これを説けり。朕この地獄を造りて罪人を呵責すべし。しかして汝をしてまずこの大火坑を渉らしめんと欲す」と。夜叉尊者大神通力を現して阿育大王のために説法教化す。
 大王翻然として邪見を転じ、たちまち戦争を廃棄し慈悲心を生じ、殺生を禁断し、飲酒噉肉を止め、大王膳にもなお腥肉を却け、慎んで如来の制戒奉持し、その皇子皇族を仏法の中に出家剃髪せしめ、海を渡ってセイロン、ビルマ等に派遣して、仏法を伝道せしめ、法門の棟梁を選抜して大法官と称し、遠く小アジア、ヨーロッパに仏法の福音を宣伝せしめ、これによって平和の国交を修せしめたり。
阿育大王の仏教復興はその統治下にある全民衆の欣ぶところとなり、一大王国渾然として一体となりてインド民族文化の開発となせり。仏教経典の結集を行い、寺を建て僧を度す、その数挙げて数うべからず。特に釈迦牟尼仏の遺蹟四大霊場を始めとして、各地に自ら巡礼し、石の宝塔を建てて、如来の功徳を宣揚せり。その建つるところの石塔八万四千の数に達すると伝えたり。漢土、日本にも阿育大塔と称する者二三あり。その真偽は不明なれども大王の功徳を推するの一端として、また見るべきものあり。
 爾来星霜移ること約二千八百、あるいは二千四百を経て、荒廃せる物鮮からずといえども、今日なおインド各地に阿育大塔と称する物厳然として存在し、阿育王文字の彫刻鮮明に残れる物若干あり。インドの仏蹟巡礼の客として、石塔の下底廻転た禁ぜず。往古を徜わしむる唯一の記念となれり。
 阿育王の仏教文明は、インド民族五千年の歴史上空前絶後と称せらるる発達を遂げたり。阿育大王の功績は仏教の流通とともに、日に新たに宣伝せられ、万国歴史上もっとも多くの人によりて、敬仰親愛せらるること、如何なる時代の如何なる帝王英雄よりも勝れさせ給うべし。
 善悪は本と二物に非らず。人の一念心の左右のみ、人の一念がもし善の指導を被らばその人善人にして、善行をなすに至るべし。世に悪業を造作する者あれども、これを訓うるに善をもってすれば、また善人となすことを得べし。邪正はまた一体の表裏のみ。表相の邪見も裏面の正見を離れず、正見一度表面に出れば、その人また邪見を発せず。阿育大王は正しくこの現証の人なるべし。
 日本国人王第一代を神武天皇と号す。天皇生まれながらにして明達意かたく強くまします。御年四十五歳に及びて諸兄及び御子等を集めて曰く、東に美しき国あり、青山四方に囲れり、彼の地は必当に天業を恢め弘べて天の下にみちたる足りぬべし、何ぞ就きて都作らざらむと天皇みずから諸皇子舟師を帥いて東を征ちたもう。しかして六年にして大和国畝傍山の東南橿原の地に皇都をひらき帝宅を経め初め給う。その時に令を下して曰く、
「六合を兼ねて以て都を開き八紘を掩うて宇と為むこと亦可からずや」
 この意は帝都を開いて全国の文華を嵩むべし、帝都は単に帝王の帝都たるのみに止まらず、すべからく全国内の帝都たらしむべし、帝宅は天皇の邸宅たるのみに非ず、億兆臣民の邸宅たらしむべし。今時運屯蒙につらない、民心素朴なり。あるいは巣に棲み、あるいは穴に住むをもって平常一般の習慣風俗をなせり。まさに山林を披き払いて宮至を経営し、人民の生活状態を改善せんがために率先して規準を示すべしとなり。故にまた曰く「夫大人の制を立つ義必ず時に隨う。いやしくも民に利あらば何の聖の造作に妨わん」と。まさに知るべし皇都をひらき大壮を作らせ給うの意は素朴に順れたる民心を導きて人民生活を有利にし、豊富にし、快楽ならしめんがためなり。これを民に利有りという。
 皇都成り帝室成りて翌年春正月橿原宮に帝位につき給う。この歳を天皇元年と為す。これより二千六百年を迎え、神武天皇発祥の地宮崎なる古代の帝都付近の地を相し一大記念塔建つ、題して「八紘の基柱」と称す。時運偶々日本の戦時下にあり、日本国内に於ては教育宗教あわせながら軍事に動員せられ、農工商業みな軍事に利用せられざるは無し、八紘基柱もまた軍事に利用せられて日本の戦争的発展の表徴とせらる。これ神武天皇の詔勅を誤る大なる者なり。
 誠にみよ神武天皇の皇都経営より二千六百年内には国民と皇室との戦争殆んど有ること無し。近隣諸国との兵を交うるが如きことは僅かに一両度に過ぎず、万国史上比類なき平和国家の基柱と肇められたること実に神武天皇肇国の詔勅に渕源する所以なり。しかるに明治維新已来隣邦と兵火を相見ること指を屈する遑あらず、けだし皇祖国を肇むるのに心背ける所以か。戦争後幸いにして八紘基柱の意義を訂正してこの軍事的色彩を剥脱せしめ、これを神武天皇詔勅本然の平和の象徴として将来民心の転換を計らんと欲する情切なり。
 神武天皇よりおよそ一千三百年にして推古天皇帝位につき給う。日本の天皇として最初の女帝なり。もっとも深く平和を愛し給う。天皇即位十二年十七条憲法を作って天下式目たらしめ給う。その第一条に曰く、
 「一に曰く、和を以て貴しと為し忤うこと無き宗と為す。人皆党有り亦達者少し、是を以て或は君父に順わずしてまた隣里に違えり。然れども上和き下睦いて事を論うるに諧いぬる時は則事理自ら通う何事か成らざらん」と。
 日本の皇室に於て、一千三百年已前に制定せられたる十七ヶ条の憲法のその第一条は実に和を貴み忤うこと無きを宗と為すと宣べり、この憲法出でてのち奈良朝平安朝に亘るおよそ四百年間は一人の死刑囚を出さざりし太平の御代にして、日本文化最高峰を称せらるる歌集歴史物語等世に現れたり。この間近隣諸国との往来交通は盛んなりしかども相互に相侵することなかりき。憲法第二条は平和建設の指導機関として仏教興隆の詔勅を徹底せしめんがために、
 「篤く三宝を敬うべし、三宝とは仏法僧なり。則四生の終帰万国の極宗なり、何の世何の人が是法を貴ばざる。人尤だ悪しきもの鮮し能く教うるをもて従いぬ、其三宝に帰りまつらずば何を以てか枉れるを直さむ」と宣べり。
 一国の平和は但だ法令の制定のみにしては到底実現さるるものに非ず、すべからく一国人民の心中に平和の気分育成の方法を講ぜざるべからず。これ即ち宗教的工作の重要なる所以なり。推古天皇は即位早々に「興隆三宝」の詔勅を発し、日本国に於て一千三百年来未曾有の新宗教採用に国論を定め給えり。果せるかな十七条憲法の平和の国定は「興隆三宝」の詔勅と相表裏して日本国二千六百年間に画期的太平安穏の歴史を作れり。
 しかるに中古武家政治の台頭するや平和の憲法は破棄せられて暴力はこれに代わり、仏教の興隆は廃止せられて刀槍甲冑に熟練し、戦国時代を経て遂に封建制度となり、日本国の上下を挙げて武士の支配下に置かるるに至れり。この間武士道学と称する一種諂曲の邪見を論説し、武士を礼賛し武家政治を強化せり。
 明治維新の革新はこの封建制度の武家政治の廃棄するに成功したけれども、武士道学は隠然として漸く日本の軍部を煽動して、遂に国を挙げて戦争に狂奔せしむるに至れり。明治維新の革新に於て皇室と仏教とを隔離し、政治軍隊教育の各種機関より完全に仏教を駆逐し、かえって武士道をもって国民の精神教育にあてんとせしこと曠古の失政なり。
 現下日本の国民は心に平和の仏教を失いて呆然として自ら嚮うところを識らざるが如し。人の心は善に赴かざれば則ち悪に動く、斯の如くして推移すること若干年ならんに国運の前途甚だ暗澹たるものあり。今にして終戦の詔勅を奉行せしむべき精神的宗教工作を施さずんば、まさに収拾すべからざる人心の荒廃を来し延て社会の禍乱を生じなん。故に神武天皇皇都経営の詔勅の本旨を再検討し、推古天皇の平和尊崇の十七条憲法に格準せしめ、今上天皇終戦の詔勅を貫徹せしめんがために、仏教僧衆日達深く釈迦牟尼仏陀の経文を探りて、彼の「八紘の基柱」をしてその意義を転じて仏舎利塔と為し、如来法身平和の教法を尊敬して、内にしてはこれをもって日本国絶対平和の国是額立の標示と為し、外にしては彼の万国の人をして礼拝偈仰の対象と為さんと願ず。
 妙法蓮華経序品第一に曰く
「文殊師利 又菩薩の 仏滅度の後 舎利を供養する有り 又仏子の諸の塔廟を造ること 無数恒沙にして国界を厳飾し 宝塔高妙にして五千由旬 縦広正等にして二千由旬 一々の塔廟に各千の幢幡あり 珠を以て交露せる幔有て 宝鈴和鳴せり 諸の天竜神 人及び非人 香華妓楽を常に以て供養せるを見る 文殊師利 諸の仏子等 舎利を供せんがために 塔廟の厳飾して 国界自然に殊特妙好なること 天の樹王のその華開敷せるが如し」

 謹んで経文と案ずるに、如来滅度の後仏舎利を供養せんがために無数恒沙の塔廟を造り、香華妓楽をもって常に供養すべしと、即ち宝塔の建立は衆生世間には質直にして意柔軟に香華妓楽を娯しむ優美の生活を与え、国土世間には国界を厳飾して平和の気分を養い、春夏秋冬を凋落することなき天の樹王のその華地上に開敷せしめたるが如しとなり。昔聖徳太子十七条憲法の首項に平和無忤の国是を提唱し給うや、これと表裏して仏舎利塔建立のため遠く三韓より職工博士を招き工事に当たらしめ給えり。この外法華経の中に塔廟を起てて舎利を供養するの功徳を説き給えること、その文繁多なり今総てこれを省略す。
 灘速の四天王寺、大和の法隆寺の五重塔の如きは即ちその遺蹟なり。これらの仏舎利塔は一千三百年間代は幾変遷すれどもその間不断に日本民族を教えて質直にして意柔順ならしめ、日本国土荘りて平和の風景を添えしこと、その数挙げていうべからず。また今日本は平和の国家として更新せんとするに望み、仏舎利塔の建立は必須の要求なるべし。仏舎利塔建立に先立って従前各種の意義に由て建立されたる塔廟を開顕して仏舎利塔に転変せしむれば、これ則ち祖先の功労を将来の平和建設の礎石として有効ならしむことを得べきなり。
 去る昭和五年の頃よりインド各地に遊び、昭和十三年支那事変の平和的解決の方を心中に秘して日本に帰り、戦争最中の支那各地、満州北支中支南支に巡錫して仏舎利塔建立の議を提唱せり。これに応じて満州新京には張国務総理を会長とせる仏舎利塔奉讃会起り宝塔建立に着手す。続いて昭和十九年南京市紫金山麓革命烈士記念塔の頂上に仏舎利を奉安す。当時の楮民禰外交部長がこの発起人なり。その翌年昭和二十年春四月二十八日北支政務委員長王揖唐居士の発願に由て北京西郊外に聳てる乾隆皇帝の勅建に係る玉泉山の七層樓の頂上にもまた仏舎利奉安の式を挙げたり。内蒙の王爺廟成吉汗廟にも同年五月また仏舎利を奉安せり。
 この外香港、台湾、広東、上海、漢口等に已に仏舎利奉安の式を挙げたるもあり、まさに挙げんとして終戦に会えるもあり。これを要するに、東亜の平和は仏舎利塔建立荘厳の一事に由て恩讐の苦海を越えて親善の彼岸に到達することと得べき旨、多年兵火戦塵の間に於て彼我の民族を通じて漸く証明されんとす。
今「八紘の基柱」をして転じて仏舎利塔を為すことを得ば啻にこれを建立せし懸下人民の苦労を空しく水泡に帰することを免れしむるのみならず、日本国民に平和第一の方針を示し、近隣仏教国民族をして日本に仏教復興の機会到来せるを喜ばしむべく、後代永らく大平の基礎を祝福して香華妓楽をもって塔を供養すべし。誰の有智のものかこの仏事を隨喜し奉讃せざらん。
 過去を省み将来を慮って現下国運の一大転機に際し平和の基礎を額立せんがために陳情することを件の如し。

<編集部注>

 この陳情書は宮崎市内に建つ「八紘の基柱」を開迹して仏舎利にすべくG.H.Q.その他行政機関に提出したものです。この運動は実現しませんでしたが、戦争中威張っていた神道論者が青葉に塩の如く竦んでいる時に、敢えて「八紘一宇」の真の意味を仏教徒の立場から説かれている、誠に小気味よい小文です。短い文章ですが大思想を揚げられる藤井尊師の見識の高きをしる材料となりましょう。尚、この基柱の設計者である日名子実三先生は日本山の信者であって、終戦前の四月に世を去られましたが、生前にこの八紘の基柱に仏舎利を奉安することを尊師猊下に願望されていました。そのことは遂に実現しませんでしたが、八紘の基柱は「平和の塔」と名を変えて今日も宮崎市の名所となっています。日本山の仏舎利塔建立誓願は戦争中からのものですが、これの実現は昭和二十九年四月の熊本市花岡山をもって最初の仏事となりました。


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りんごの花

臘八修行

断食 昭和八年十二月十四日
断食修行一七日間をワルダの塾にてつとめ候、御修行中は特にガンディー翁のお居間を空けて御修行に便せしめくれ候。さすがに断食修行にかけては大英帝国の措置をすら、しどろもどろにうろたえしめたるガンディー翁の一門の人達なれば、其の手当ても其の苦痛も其の功徳も、熟知せられたることとて大層親切にお世話をしてくれ候。拙子もいつも臘八修行も勇み喜ぶ御修行ながら、今年は猶一層広大な歓喜と希望と安楽とに充足せられ候。

ダーウィンの進化論的菩薩、仏

【大道】 昭和二十一年
 ダーウィンは最も卑怯な動物すら我が子の為には恐るるところ無く立ち上がり、身を拠て子供を救わんとする事実を述べて、下等動物間にすら道徳的本能が有る事を指示している。
人間の優れたる点は、其の道徳心が下等動物よりも一段と鋭く、且つ高度に発達して、家族の為、団体のため、国家の為に其の身を犠牲にすることである。
是に於いて、人間各団体にとりて最も安全なるべき自己保存の法則の達成と、人類社会全般にとりて、最も永久に繁栄すべき種族保存の法則の達成とは、一般生物学的に検討しても、進化論的に探究しても、対立、排他。怨嫉的激情から闘争し殺生殲滅を行う事でなく、之と反対に格個人の心中に慈悲同情、仁愛の心を開発し、自ら実践し広く一切の人を教化し示導する事に依って達成する。此の如き大士を菩薩と名ずくる。
菩薩が住んで神通説する世界を浄土と言う。衆生善業の因縁に由って、浄土の教主として世に出現し給ふ者を仏陀世尊と称す。

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