藤井日達上人

其人行世間、能滅衆生闇

日蓮宗がいつも弘まらなかった原因は、檀林なんかを作りまして、天台の教学等を一生懸命に勉強して一生暮らしました。これが悪かったんです。今日でも大崎を出て博士になりました人はあっても、その学問で、仏法が、御題目が弘まったなんて言う話を聞きません。御祖師様の御主旨、法華経を弘めた者は、ただ末法の要法として残された南無妙法蓮華経を唱うる人が弘めました。
私も大崎を出まして、他宗の留学も十年来いたしましたが、御題目を弘めるという一段に到達した時、全部捨てました。
太鼓一丁持ってフラフラと歩き廻ることをしました。この時に、寺を建てたいと思うて歩き廻りません。ただ御題目を唱えて歩き廻りました。「其の人、世間に行ずる」ー「行ずる」なんていうから解らんけど。「行進する」ことであります。
本化地涌の菩薩、その上首、四大菩薩。皆行進しております。上行、無辺行、浄行、安立行。安立行まで歩きます。歩かねばいかん。「行進」のその文字。それで私の名も先師から伝わったように「行」の字をとって、出家した時に「行勝」と名うぃ頂きました。「行勝」で今まで通りました。
歩きました功徳、御題目を唱えた功徳、他のことは何もしませんが、それが一閻浮提に広まりました。

日本の仏教、天台、真言、一番多いのは念仏,禅、今日世界に弘まりません。世界を動かしておる日本の仏法=南無妙法蓮華経 。この一言であります。
南無妙法蓮華経と唱えてまわったお弟子方が、一夜泊まった町が、平和都市の宣言をしております。それがいくつもあります。もう一つは、お弟子がたが泊まった町が世界平和の日というのを決めました。
世界平和の記念日、それは日本山のお弟子が歩いて泊まった日だという、それが幾つもの町で出来ております。世界にこういう不思議なことがありましょうか。何も講釈したわけでもありません。ただ玄題旗を立てて太鼓を撃ってまわった、宿をもらっただけであります。
「其の人、世間に行じて、能く衆生の闇を滅す」ーこの経文が実証せられました。 (昭和五十七年八月六日 広島道場御誕生会)


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インドは全暴力を却くべきである。

インドは全暴力を却くべきである。
カカサーブに答うる書  (昭和四十年十二月一日)
南無妙法蓮華経 去る十月朔日記の御手紙、今井氏帰朝の便に托して贈り給わりました。忝く拝見いたしました。
私が平素、印度の国に対して期待している点から、印度の最近の状勢を憂うる余り、筆を執って、先生の御一覧を煩わしました。然るに私の言う所が、全く理解できないとて、今度、叱正を被りました。そこで、さらに私は、是非に先生に理解していただきたいと希う心から、また重ねて筆を執って、ご不審にお答えいたします。
御文に曰く「一、印度政府は軍隊を組織しております。世界中のどこの国でも、軍事力によって、国土を防衛する権利を認めております。インド政府もまた、これを認めております。」
答えて曰く、近代国家の発生以来、人類の苦難は、戦争によって圧倒的になりました。戦争は国土防衛、その他の理由により軍隊によって行われています。
日本国ごときも、平和憲法を制定しておりながら、国土防衛のための名目をもって、軍事力を持つことを自他ともに許しております。しかしながら、日本国の平和は自衛隊と称する軍隊によって保障されておるのではなくして、反対に、戦争を憎しみ、軍隊を嫌う国民の平和的信念によって持たれております。
それ故に、政府は昼夜、軍人募集に狂奔しておるにもかかわらず、いつも軍隊は大勢の欠員を生じております。
米ソをはじめ世界の人々は「一切の戦争を廃止せんがために、一切の軍備を廃止せねばならぬ」と言うことを論議し始めました。
いわゆる軍縮会議が提案されております。印度が一片の武器をも持たずして、独立自治の政治革命を達成せしことを、全世界の人々は驚くべき興味をもって注視しました。
世界の人々は、恐るべき戦争の呪いから救われたいと望みながら、しかも、その救われる道を知らないのが、現代の悲劇であります。そこで世界の人々は、印度の非暴力による独立自治の運動の成功が、すなわち、世界平和のための輝かしき光明と、弑虐の地獄からの救済の唯一の方法であることを感じました。
これによって、第二次大戦終了後の印度の平和外交は、アジア・アフリカ諸国民族を蘇生せしむるのみならず、世界を風靡しました。

ガンジー翁はかって「私は印度が非暴力の福音を人類に告ぐることこそ、印度の使命であるという、揺ぎない信念を持っている。その発展には長い年月を要することであろう。しかし、私の判断する限りにおいては、他のいずれの国といえども、印度に先んじて非暴力の福音を人類に告ぐる国はないと思う」と断言しました。
私も印度の尊き使命を、此の如く信ずるが故に、印度が軍備を持ち、軍事力によって、国際紛争を処理せんと欲する政策を悲しむ者であります。
ガンジー翁の【試練の時】に曰く「私は、印度は自国の境界を護らんがためでさえ、全暴力を却くべきであるという信念を表明せねばならぬ。印度が軍備競争に入ることは自殺行為である。印度が非暴力を失えば、それで世界の希望が失われてしまう
御手紙に曰く「印度人は皆、ガンジー翁を尊敬しておりながら、全部の人々が皆、ガンジー翁の非暴力を肯定しておるわけではありません。」
答えて曰く、ガンジー翁も、かって言われました。「印度は自国内に、非常に多くの好戦的民族を有するから、彼等は敢然と戦うことを望むであろう。これは全く本当である」私も先年、印度各地、特にパンジャーブ州を巡って「敢然と戦う」という議論を数々聞きました。
日本国も第二次世界大戦終了までは、全国民が好戦民族であるかのごとく、自他ともに眺めておりました。然るに、日本国民が聖戦と称して、多年、他国と戦争し、敗戦降伏するにいたって、初めて戦争の本質が罪悪であり、悲歎であることを知って、翻然として、平和民族と変化いたしました。平和の指導標として、全国に五十余基の御仏舎利塔を建立しつつあることは、正に平和国家の象徴であります。
印度も一部の交戦論者に引きずられて、軍備防衛を肯定することは、印度の自殺行為であります。ガンジー翁の偉業を壊滅さする所以であります。私は印度が軍事行動によって、外交問題を解決せんとすることを歎く者であります。
一、中国に対するご質問「中国の地図には、印度領土を勝手に中国領土であると発表する」
答えて曰く、印度が領土権を主張する所にも根拠がありましょう。中国が、またその地図に、領土権を主張する所にも根拠がありましょう。それは、中印両国の政府間の話し合いで解決すべきものであり、両国の軍事行動によって解決すべきものでないと信じます。
また御不審に曰く、「中国の要求するがままに、領土を与えるならば、その次tあ悪いことと考えます。したがって、その対策は立つる必要がありません。しかしながら、多くの印度人は、中国に対して、此の如き不信と恐怖とを懐いておられるであろうと察します。これに対する解答は、すでにガンジー翁が提案されてあります。すなわち【英国人に訴うる書】は、それが解答であります。
貴方達や、人類を救うためには、その持っている武器は、無用の物として捨て去ることを希望する。あなたたちの所有に帰している国々を、欲しがっておるヒットラーやムッソリーニを招き入れなさい。たくさんの美しい建物のある、美しい国を与えてしまいなさい。あなたたちの魂と命のほかは、すべてを与えてしまいなさい。」
私はガンジー翁のこの訴えを今、印度の人々に訴えんとする者ではありません。それは、中国もパキスタンも、こんなことを要求せないからであります。しかしながら視野を拡大して、世界から戦争を排除し、国家から軍備を廃止せんがためには、結局、此の如き覚悟をも、また必要であります。
また曰く「他国の侵略に対しては、自己防衛のために戦うことが、当然の義務である。」軍人は、自己の職業たる戦争たる戦争を正当化せんがために、種々の理由をつけております。
「自衛」も「国防」も「正義」も「平和」も「友愛」も皆、戦争行為の理由としております。現在、世界の人々から侵略者として、非難の的となっておるアメリカの越南(ベトナム)戦争でさえも、これから「正義」「平和」などと、多くの理由のために、やむをえず戦っておると申しております。
私が、印度の人々に対して、戦争行動の停止を呼びかける所以は、印度が貧弱なるが故にとか、また印度が敗戦するが故にとか、という意味ではありません。戦争という行動が本質的に罪悪であり、戦争の結果は何らの解決をももたらさないものなることを、私が体験せしが故に、その停止を訴える所以であります。
何の怨恨もなく、何の罪悪を犯さない人間同志が、相互に殺傷し、残害する戦争を、正当化する理由は、どこにもありません。特に今日、行われつつある非人間的な爆弾、毒ガス、細菌戦争等々、いかにしても、こえを「正義」と呼び、「平和」と呼び得るはずはありません。戦争行動において、勝たんがためには、敵が野蛮にして、醜悪なる戦争手段を用うる時には、さらに我もまた、これに勝る残虐手段を採用せなければ勝てません。
戦争手段の残虐から残虐へと、大量殺人から大量殺人へと、驀進する結果が、原水爆の出現となり、人類全滅の呪詛となりました。人類絶滅の恐怖も、その最初は「自衛」「国防」「正義」「平和」のためと言って、国家が武器を採用したという、唯だこの一事であります。


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アヒンサ

アヒンサ 3 (昭和三十八年頃)
中印国境紛争についてこれを案ずるに、中共は元来殺人破壊を前提として社会革命を遂行せんとする唯物主義の暴力的国家である。インドは元来非暴力を前提として政治革命を達成せる道徳的平和国家である。
すなわち平和の手段をもって平和の目的を達せし革命歴史上空前の平和国家である。
かくのごとく建国の基礎を異にする中印両国の紛争は、暴力と非暴力との対決であり、殺人と不殺生とのトーナメント(競技)である。
「諸君が、外国の侵略に対するには武器を採るより他に方便はないと考えたり、または日々起こる騒擾・暴動・反目の鎮定には、武器なくしては不可能であると考えるならば、それは誤解も甚だしいものである。
組織だった非武装の抵抗は、深夜家宅に侵入せる盗賊に対するよりも、容易に処置ができ、それが最高の形式のアヒンサと呼ぶに相応しいものである」
「外国の侵入に対して、インドは防衛力を持っていないという者がある。私は彼らが非暴力を信じぜざることを知って落胆した。非武装のインド民族がこの広い分野において、非暴力運動に集結することが、インドを護る唯一の武器であると信ずるものである」
「インドの好戦的な人々はどうであろうか、と不信に思う。私はそれゆえにこそ、会議派の人々が祖国を防衛する為に努力すべきことは、シャンティ・セーナの結集であるという。これは全然新しい防衛の試みである。会議派の他に誰がそれをなし得ようか。会議派は一つの分野において成功した。もしわれわれが非暴力部隊を充分に訓練していたならば、この新しい分野において成功することも。また確実である。」
「問一、強力な独立国家インドは、自己保存の手段としてサッティヤグラハを国の手段として採用する時に、インドは他の独立国家によって、あるいは侵入されるかもしれない。そのとき、いかにして自国を防衛するでしょうか。辺境において侵入軍勢に対抗すべくサッティヤグラハ的行動形式はどんなものでしょうか。あるいはサッティヤグラハ運動者達は敵手が国を占領してしまうまで、行動を差し控えるでしょうか。
答。私は国家は人民の大部分が非暴力であれば、非暴力を基礎として管理され得ると信じる。インドはそんな国家になる可能性を有する、広い世界の中において唯一の国である。
インドが純粋の非暴力を通じて独立すると仮定すれば、インドは同じ手段によってそれを保持することが出来るであろう。もし最悪の事が起これば、非暴力には二つの道が開かれている。第1の道は所有物を譲渡する、しかし侵入者と協同しない。
このようにネロの現代版がインドに下れば、インド国家の代表者たちは彼を侵入させはするが、人民の援助は何も得られないぞというだろう。人民は服従よりもむしろ死を選ぶであろう。
第2の道は、非暴力的方法を訓練されてきた人々による非暴力的抵抗であろう。彼等は侵入者の大砲の前に糧秣(りょうまつ)として非武装で我が身を差し出すだろう。
両方の場合、その根底にある確信は、ネロといえども全く慈悲心がないとは考えないということである。男女みな侵略者の意思に身を保全するよりは、天真に死んでいく。その思いがけない、後から後からと続く光景を見ては、その侵入者の兵士といえども心を和らげるに違いない。実際的に言えば、この場合、武力抵抗するよりも人的損害が恐らくは少ないであろう。
軍備要塞の支出は全然ない。人民がかく訓練された時、その道徳的水準は想像もおよばぬほど増すであろう。その男女たちは武力戦争において示されるものよりは、はるかに優れた種類の勇敢さを示すだろう。どの場合にも、勇敢さは他人を殺すことにあらずして、自己が死に赴くということである。
アヒンサという法則は、国境や国土を防衛する法則ではない。アヒンサ(非暴力)という法則は、人類の生命を守る法則である。近くは国民の生命を守り。広く世界人類の生命を守る法則である。」
「私は貴方たちが敗北したからいうのではなく、戦争なるものが本質的に邪悪なるがゆえに、戦争停止を訴えるものである。貴方たちは戦争に勝つことではない。なぜなら貴方たちは、ナチスよりもさらに冷酷にならなければならないから。
いかに正義のためとないえ、昼夜間断なき無差別の殺人破壊は、決して正当化されるものではない。今日行われている非人間的な戦争を、正義と呼び得るはずはない。私は英国が負けることを希望もしていない。貴方たちが、ナチスとその醜い戦争を行うことを望まない。私は貴方たちに最も勇敢なる兵士に相応しく、より気高く、より勇敢な道を示したいと思う。
私は貴方たちが非武装にして、非暴力の武器をもってナチスと戦われんことを望む。貴方たち自身、ないし人類を救わんがためには、その手にしておる一切の武器を、全然不要のものとして放棄せられんことを希望する。
貴方たちの国家を略奪せんとしておるヒットラーやムッソリーニを招きいれ、その沢山の美しい建物の建っておる美しい国を、彼らに与えてしまいなさい。
もしナチスが貴方達の家に住みたいというなら、その家を明け渡しなさい。
また、われわれよりもずっと賢明なる貴方達は、このアヒンサという比類なき新しき武器をもって、ドイツやイタリアの友人に対する方針とせられたならば、実際、過去数ヶ月の欧州の歴史は異なったものとなったであろう。欧州には無辜の人々の血と、小国に対する暴行と、増悪とは、なくてすんだであろう」
以上は、第二次大戦の初めにマハトマ・ガンジー翁が英国に訴えた言葉である。今日、私はこの言葉を挙げて、インドの諸君に訴えたいと思う。もしこの言葉が中印国境紛争解決に利益することがあれば、私の本望である。
     (昭和三十八年頃)

忍辱

【忍辱】
忍辱も忍べば、それが菩薩行の修行であります。忍辱なき所には菩薩行は成り立ちませぬ。人を救い,世を救う広大不思議な力は毎に忍辱を忍ぶ人のみが持つ力であります。忍辱を忍ぶ力を養わんが為に出家の生活が人中に営まれるのであります。

インデアン

 大使命を自覚し、大使命を自信して、インデアンの中に法鼓を撃って往きなさい、如何なる結果を生じようとも少しも見る必要は有りませぬ、為さねばならぬ菩薩行を為すのみであります。・・・・・・・人を救う者は、自ら極貧の生活に甘まんぜねばなりませぬ。

二十一世紀への予言 その1

二十一世紀への予言 その1
前略 
現今の商売はお金儲けのほかには何の目的もなく人間が動いています。禽獣が餌を求めるのも、牛馬が草を喰らうて歩くのも、たいして今の人間の社会の仕事と変わりません。それでその結果はといいますと、損をしたの儲けたのと、そんな話以外に何もありません。あまり儲けると、よその人がそれはいけないと言う。それで儲けないようにしようとする。損をしますと、損をしては大変だ、損をしないように商売をしよう。これで「貿易摩擦」という言葉が使われます。金銭の争奪であります。動物の社会以外の仕事とは思われません。
この金儲けも悪いことをして儲けならばいけないでしょうけれども、悪いこともしないのに金を儲け過ぎることもいけない。損しますと、今度は悪いことをして損をします。例えば人間の生活に投資すべき金も人材も人殺しの悪いことに回す。それで人々は生産の方面に働く力を失って損をする。
そして損をしたというと、あまり儲けすぎたからだと言われる。こういう理由が堂々と通っております。ここに物質文明の末路は破綻を生じます。
せっせと人殺し、破壊の武器を作るが、これを使うわけにもいかないから商売道具に変えます。”武器の輸出”であります。買い手がないと困ります。買い手を作らねばならない。金儲けをしている国にこれを売りつけることにします。
武器を買い込むのは金があるから買い込むのではない。戦争をするために必要だから買い込めというのであります。日本国は第二次大戦の後に、戦争はしない、軍備は持たないことにした。これは世界に先駆けて、世界のまさに来るべき悲劇を人類がくい止めるための憲法であります。
それを戦争をしてもよいということに改正しよう。改正まで待てないから今のうちから買い込んで戦争準備をしようと言うのであります。1機の飛行機を買いますと、私らの想像も出来ないような何百億の金がいります。その金を向こうに渡すのであります。
こんなことをしていきますと、やがてどの国も行き詰りをみます。第一にアメリカ合衆国が富める国として戦争の被害を知らなかった国として栄ましたが、この軍備拡張のために今や失業者がやたらに増え国民の生活が苦しくなりました。日本国も飛行機や潜水艦を買い込んだために、国民の生活が圧迫されそうになってきております。国の滅びる前に災いが起こります。これは「立正安国論」に引かれている御釈迦様のご説法の中に、一つは五穀が高くなる、穀物騰貴する「穀貴に災い」。これは食べ物ばかりでなく、社会生活が混乱する姿であります。これが出てきます。
その次に「国位喪失の災い」が起こります。主権者が我々の生活を潤わせない。主権者はやめてしまえ。ということになる。レーガン大統領もそろそろそのしっぺ返しがゆくようであります。国家の政治権力の座から離れなければなりません。もう一つあります。「兵革の災い」。武力革命。こいいうことがやがて起こってきます。アメリカも警戒せないとやがてこうなります。世界中の民衆に食べ物を与えずに人殺しの道具に使っていく世界。これは三悪道の姿でありまり、まさに阿修羅道の姿であります。
これが現代の文明の名においてなされております。この文明は人類の智慧をもって改ていかねばいかん。
(昭和五十六年四月一日)

本質の世界

大体、世の中はみな不思議な世界であります。悪行が重なれば苦しみが現れ、善業の功徳を積めば仏様が現れ、自分も有難いお姿となります。ですから、すべての問題はわれわれの認識の上にあるのではなく、その奥の方に本質があり、本質の世界がある。それでわれわれもその身は有に非ずまた無に非ず、悪業の因縁によって喜びを受ける身が現れる。
今日、世界の人類がみな悩みますのは、唯物論によって人間の心の奥の世界が隠され、目に見えるもの、これだけを研究する様になったからです。形のあるものだけを考えていきます。その結果、およそ形のあるものは何もかも、小さいものから大きいものまで、ほとんど数え尽くしてみます。それがどうなるかと言うと、人間はやがて自ら滅びる運命になってしまいます。
それで滅びまいとすれば、その考え方を変えねばいけない。
物質的な世界だけを見ていれば、物質を集めたり飾ったりすることが人間の努力する仕事のようになります。今日の戦争はそこから起こります。戦争は物質的な争いであります。それを助けていくものは心の貪欲というものであります、それが戦争の道具になってしまいます。
人間も世の中も平和に治めようとするならば、まず貪欲・瞋恚・傲慢・愚痴・猜疑、これらの煩悩を調整していかねばならない。煩悩は誰にでもあるものですが、無制限に発展させてよいものと思い権利などと言っております。物質がなんぼあっても世の中は恐ろしい世界に転じていきます。
世の中を清らかにしようと思うならば、平和にしようと思うならば、まず物質の存在よりも、身体を養うよりも、さらに大切な問題があります。それは人の心を統制していく道であります。「欲しい」という貪欲の心がない人はありません。「腹が立つ」という、これもない人間はありません。
つまらんことを考えて愚痴も言わない人もありません。有るものを、これが災いに発展しないように自らも苦しむ。こういうところに貪欲・瞋恚・愚痴が走っていくのを止めていく。これは物質では止まらない。精神的な考え方、精神的な統制が必要であります。
貪欲の心が起こる。起こったら自らが抑えていく。この心が起こらねばなりません。瞋恚、腹が立ちます。腹が立つままに茶碗を投げてみたり、人を叩いてみても納まりません。腹が立つ心を抑える心が別にあります。貪・瞋・癡、人間の煩悩は昔も今も少しも変わりません。
それが世の中の災いをなしております。その災いを除くためには、この心を抑えるより仕方がありません。それが宗教の修行であります。


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台北 花市

真実の仏法

真実の仏法
殺人破壊戦争行為は世法であります。原水爆核兵器も、また世法であります。
貧困も搾取も、また世法であります。条約も法律も、また世法であります。
かくのごときらの世法は、一切衆生に不断の脅威を与え、結句、人類を悲惨なる障害と横死とに陥れるものであります。
かくのごとき世法の実相、実性、実果を深く知って、これを解脱せしめ、人類に畏れなき生活を与えんと欲する運動が、当世、いわゆる世界平和運動であります。
戦争行為、核兵器、諸種の戦争条約等、一切を破棄する平和運動もまた世法であります。この平和運動をたとえ共産主義者が行っても、かつまた自由主義者が行っても、これこそ真実の仏法であります。
平和運動の中にも種々の宗教者、または哲学者があります。これらの宗教者、哲学者等が、おのおの拠り所とする一切世間の教書は皆、是れ仏説にして、外道の説ではありませぬ。
当世の平和運動を世法としてこれに与せず、みずから独り仏法者として、各宗教宗派の形骸に拘泥し、或いは殿堂に在って経典を読誦するとも、或いは市中に在って寺院経営するとも、それらは真の仏弟子に非ず、真の仏法を行ずる者ではありません。一切世間の苦悩を知らず、人間全滅の危険を知らざる者は仏法ではありませぬ。 (1965年頃)


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核廃絶の御祈念 ニューヨークの国連本部前広場1982年

親交平和の世界

【社会生活】
「古言に牛の飲む水は乳となり、蛇の呑む水は毒となる」と云った。両者同一の食料を食っても両者同一の平和の世界には住まない、平和な生活の所詮は其の心性、相好の平和化に待つより外にない。平和は食物の多少でもなく、生活水準の向上でもない、草を食っても、水を飲んでも、其の心中に瞋恨が無く、其の舌端に悪口、怨言が無ければ,そこに平和の世界は展開する。
反目闘争無くして進化無し、と云う唯物弁証法は、根本的に悪獣毒虫の哲学に過ぎない。―――――――――中略――――――――――――
相互扶助と衆生恩とは、共通点類似の点が多い、但だ衆生恩と言えば、宗教的感情が濃厚にして、礼拝供養の行はるる親交平和の世界に誘い、相互扶助と云えば経済的、政治的気分を帯びて権利、義務の論じらるる理論の多い市民生活が現れる。

維摩居士

維摩居士のこと
御釈迦様の御在世に、維摩居士と言うのがお見舞いに出てきます。これはビシャリ国でありまして、そこで維摩居士が病気になりまして、お釈迦様のお弟子様が行きます。そうしますと、どうも維摩居士からみんな叱られます。迦葉・舎利弗・目蓮・叱られます。みんなその時、迦葉をはじめとして。十大弟子がみんな呵責を受けますが、その時に小乗経の悟り、阿羅漢様の悟り丁度蛍火とお陽様との違いのようだ、といって譬えられたのがあります。
蛍火くらい。個人道徳の完成を、個人の救済を主に説かれました。これが小乗経、ヒナヤナであります。維摩居士は大乗経の菩薩でありますから、不思議な神通を現じます。その中で、小さい小屋みたいな所で維摩居士は寝ておったんですが、そこへお弟子さんがお見舞いに行って心配しますのは、こんな狭い小屋に大勢のお釈迦様のお弟子方がお見舞いに来ることになって、この小屋がどこにいれば良いだらうか。
文殊師利菩薩が見舞いに行きます。叱られないんですけども、維摩居士の病気見舞いに行きます。
そうして長い間お話をされておられました。時が来ましてお腹が空きました。さてこれはみんなご飯はどういうふうになるだろうかと心配しました。そうすると、また叱られる。「お前何考えているか、ご飯は香積世界という遠いお浄土から仏様が運んで下さる」そんなことは個人の世界では判りません。けれども運んでいただいたのでみんな御供養に預かりました。
けどもこの維摩居士のお話を今日我々現実のこの場で覗めますと、そんなこともお釈迦様の時代にあったかなと思います。小さいこの山の小屋でありますけれど、そこにやたらに大勢やって参ります。「どこへ泊めるか」とみんなランカの人々が心配します。「ここへ泊める」「入るだろうか」「余った者は庭天幕を張って泊める」余らない、丁度いい塩梅になる。「食べ物はどうしますか」という。
「水を飲ませる」つもりでありましたけれども、香積世界から運んでくれる。けれどそんなこと宛にした訳ではありませんでした。ただ何でも3日ばかりこの山に泊めたいとばかり考えておりましたけれども都合よく運んで行きます。
で来年は賑やかに日本から参られますけれども、今度は、皆様方がお客様方を優遇してあげねばいけません。みんなは小屋もあれば台所や食堂、それから浴室やらそんな所に入って、お客様をここに泊めてあげる。そうすると喜ぶかもしれない。そしておご馳走は、ランカのお料理。ここのお料理もランカのお料理のように相当辛いんですけれども、少しその日本の人は用心を心して下さい。咳き込んでしまう。私なども、みんな少し咳き込むかもしれません。でも病気にはなりませんから、水でも飲んで口の中を冷やしていけばよい。
(昭和52年10月26日)


維摩居士
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