藤井日達上人

忍辱

【忍辱】
忍辱も忍べば、それが菩薩行の修行であります。忍辱なき所には菩薩行は成り立ちませぬ。人を救い,世を救う広大不思議な力は毎に忍辱を忍ぶ人のみが持つ力であります。忍辱を忍ぶ力を養わんが為に出家の生活が人中に営まれるのであります。

インデアン

 大使命を自覚し、大使命を自信して、インデアンの中に法鼓を撃って往きなさい、如何なる結果を生じようとも少しも見る必要は有りませぬ、為さねばならぬ菩薩行を為すのみであります。・・・・・・・人を救う者は、自ら極貧の生活に甘まんぜねばなりませぬ。

二十一世紀への予言 その1

二十一世紀への予言 その1
前略 
現今の商売はお金儲けのほかには何の目的もなく人間が動いています。禽獣が餌を求めるのも、牛馬が草を喰らうて歩くのも、たいして今の人間の社会の仕事と変わりません。それでその結果はといいますと、損をしたの儲けたのと、そんな話以外に何もありません。あまり儲けると、よその人がそれはいけないと言う。それで儲けないようにしようとする。損をしますと、損をしては大変だ、損をしないように商売をしよう。これで「貿易摩擦」という言葉が使われます。金銭の争奪であります。動物の社会以外の仕事とは思われません。
この金儲けも悪いことをして儲けならばいけないでしょうけれども、悪いこともしないのに金を儲け過ぎることもいけない。損しますと、今度は悪いことをして損をします。例えば人間の生活に投資すべき金も人材も人殺しの悪いことに回す。それで人々は生産の方面に働く力を失って損をする。
そして損をしたというと、あまり儲けすぎたからだと言われる。こういう理由が堂々と通っております。ここに物質文明の末路は破綻を生じます。
せっせと人殺し、破壊の武器を作るが、これを使うわけにもいかないから商売道具に変えます。”武器の輸出”であります。買い手がないと困ります。買い手を作らねばならない。金儲けをしている国にこれを売りつけることにします。
武器を買い込むのは金があるから買い込むのではない。戦争をするために必要だから買い込めというのであります。日本国は第二次大戦の後に、戦争はしない、軍備は持たないことにした。これは世界に先駆けて、世界のまさに来るべき悲劇を人類がくい止めるための憲法であります。
それを戦争をしてもよいということに改正しよう。改正まで待てないから今のうちから買い込んで戦争準備をしようと言うのであります。1機の飛行機を買いますと、私らの想像も出来ないような何百億の金がいります。その金を向こうに渡すのであります。
こんなことをしていきますと、やがてどの国も行き詰りをみます。第一にアメリカ合衆国が富める国として戦争の被害を知らなかった国として栄ましたが、この軍備拡張のために今や失業者がやたらに増え国民の生活が苦しくなりました。日本国も飛行機や潜水艦を買い込んだために、国民の生活が圧迫されそうになってきております。国の滅びる前に災いが起こります。これは「立正安国論」に引かれている御釈迦様のご説法の中に、一つは五穀が高くなる、穀物騰貴する「穀貴に災い」。これは食べ物ばかりでなく、社会生活が混乱する姿であります。これが出てきます。
その次に「国位喪失の災い」が起こります。主権者が我々の生活を潤わせない。主権者はやめてしまえ。ということになる。レーガン大統領もそろそろそのしっぺ返しがゆくようであります。国家の政治権力の座から離れなければなりません。もう一つあります。「兵革の災い」。武力革命。こいいうことがやがて起こってきます。アメリカも警戒せないとやがてこうなります。世界中の民衆に食べ物を与えずに人殺しの道具に使っていく世界。これは三悪道の姿でありまり、まさに阿修羅道の姿であります。
これが現代の文明の名においてなされております。この文明は人類の智慧をもって改ていかねばいかん。
(昭和五十六年四月一日)

本質の世界

大体、世の中はみな不思議な世界であります。悪行が重なれば苦しみが現れ、善業の功徳を積めば仏様が現れ、自分も有難いお姿となります。ですから、すべての問題はわれわれの認識の上にあるのではなく、その奥の方に本質があり、本質の世界がある。それでわれわれもその身は有に非ずまた無に非ず、悪業の因縁によって喜びを受ける身が現れる。
今日、世界の人類がみな悩みますのは、唯物論によって人間の心の奥の世界が隠され、目に見えるもの、これだけを研究する様になったからです。形のあるものだけを考えていきます。その結果、およそ形のあるものは何もかも、小さいものから大きいものまで、ほとんど数え尽くしてみます。それがどうなるかと言うと、人間はやがて自ら滅びる運命になってしまいます。
それで滅びまいとすれば、その考え方を変えねばいけない。
物質的な世界だけを見ていれば、物質を集めたり飾ったりすることが人間の努力する仕事のようになります。今日の戦争はそこから起こります。戦争は物質的な争いであります。それを助けていくものは心の貪欲というものであります、それが戦争の道具になってしまいます。
人間も世の中も平和に治めようとするならば、まず貪欲・瞋恚・傲慢・愚痴・猜疑、これらの煩悩を調整していかねばならない。煩悩は誰にでもあるものですが、無制限に発展させてよいものと思い権利などと言っております。物質がなんぼあっても世の中は恐ろしい世界に転じていきます。
世の中を清らかにしようと思うならば、平和にしようと思うならば、まず物質の存在よりも、身体を養うよりも、さらに大切な問題があります。それは人の心を統制していく道であります。「欲しい」という貪欲の心がない人はありません。「腹が立つ」という、これもない人間はありません。
つまらんことを考えて愚痴も言わない人もありません。有るものを、これが災いに発展しないように自らも苦しむ。こういうところに貪欲・瞋恚・愚痴が走っていくのを止めていく。これは物質では止まらない。精神的な考え方、精神的な統制が必要であります。
貪欲の心が起こる。起こったら自らが抑えていく。この心が起こらねばなりません。瞋恚、腹が立ちます。腹が立つままに茶碗を投げてみたり、人を叩いてみても納まりません。腹が立つ心を抑える心が別にあります。貪・瞋・癡、人間の煩悩は昔も今も少しも変わりません。
それが世の中の災いをなしております。その災いを除くためには、この心を抑えるより仕方がありません。それが宗教の修行であります。


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台北 花市

真実の仏法

真実の仏法
殺人破壊戦争行為は世法であります。原水爆核兵器も、また世法であります。
貧困も搾取も、また世法であります。条約も法律も、また世法であります。
かくのごときらの世法は、一切衆生に不断の脅威を与え、結句、人類を悲惨なる障害と横死とに陥れるものであります。
かくのごとき世法の実相、実性、実果を深く知って、これを解脱せしめ、人類に畏れなき生活を与えんと欲する運動が、当世、いわゆる世界平和運動であります。
戦争行為、核兵器、諸種の戦争条約等、一切を破棄する平和運動もまた世法であります。この平和運動をたとえ共産主義者が行っても、かつまた自由主義者が行っても、これこそ真実の仏法であります。
平和運動の中にも種々の宗教者、または哲学者があります。これらの宗教者、哲学者等が、おのおの拠り所とする一切世間の教書は皆、是れ仏説にして、外道の説ではありませぬ。
当世の平和運動を世法としてこれに与せず、みずから独り仏法者として、各宗教宗派の形骸に拘泥し、或いは殿堂に在って経典を読誦するとも、或いは市中に在って寺院経営するとも、それらは真の仏弟子に非ず、真の仏法を行ずる者ではありません。一切世間の苦悩を知らず、人間全滅の危険を知らざる者は仏法ではありませぬ。 (1965年頃)


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核廃絶の御祈念 ニューヨークの国連本部前広場1982年

親交平和の世界

【社会生活】
「古言に牛の飲む水は乳となり、蛇の呑む水は毒となる」と云った。両者同一の食料を食っても両者同一の平和の世界には住まない、平和な生活の所詮は其の心性、相好の平和化に待つより外にない。平和は食物の多少でもなく、生活水準の向上でもない、草を食っても、水を飲んでも、其の心中に瞋恨が無く、其の舌端に悪口、怨言が無ければ,そこに平和の世界は展開する。
反目闘争無くして進化無し、と云う唯物弁証法は、根本的に悪獣毒虫の哲学に過ぎない。―――――――――中略――――――――――――
相互扶助と衆生恩とは、共通点類似の点が多い、但だ衆生恩と言えば、宗教的感情が濃厚にして、礼拝供養の行はるる親交平和の世界に誘い、相互扶助と云えば経済的、政治的気分を帯びて権利、義務の論じらるる理論の多い市民生活が現れる。

維摩居士

維摩居士のこと
御釈迦様の御在世に、維摩居士と言うのがお見舞いに出てきます。これはビシャリ国でありまして、そこで維摩居士が病気になりまして、お釈迦様のお弟子様が行きます。そうしますと、どうも維摩居士からみんな叱られます。迦葉・舎利弗・目蓮・叱られます。みんなその時、迦葉をはじめとして。十大弟子がみんな呵責を受けますが、その時に小乗経の悟り、阿羅漢様の悟り丁度蛍火とお陽様との違いのようだ、といって譬えられたのがあります。
蛍火くらい。個人道徳の完成を、個人の救済を主に説かれました。これが小乗経、ヒナヤナであります。維摩居士は大乗経の菩薩でありますから、不思議な神通を現じます。その中で、小さい小屋みたいな所で維摩居士は寝ておったんですが、そこへお弟子さんがお見舞いに行って心配しますのは、こんな狭い小屋に大勢のお釈迦様のお弟子方がお見舞いに来ることになって、この小屋がどこにいれば良いだらうか。
文殊師利菩薩が見舞いに行きます。叱られないんですけども、維摩居士の病気見舞いに行きます。
そうして長い間お話をされておられました。時が来ましてお腹が空きました。さてこれはみんなご飯はどういうふうになるだろうかと心配しました。そうすると、また叱られる。「お前何考えているか、ご飯は香積世界という遠いお浄土から仏様が運んで下さる」そんなことは個人の世界では判りません。けれども運んでいただいたのでみんな御供養に預かりました。
けどもこの維摩居士のお話を今日我々現実のこの場で覗めますと、そんなこともお釈迦様の時代にあったかなと思います。小さいこの山の小屋でありますけれど、そこにやたらに大勢やって参ります。「どこへ泊めるか」とみんなランカの人々が心配します。「ここへ泊める」「入るだろうか」「余った者は庭天幕を張って泊める」余らない、丁度いい塩梅になる。「食べ物はどうしますか」という。
「水を飲ませる」つもりでありましたけれども、香積世界から運んでくれる。けれどそんなこと宛にした訳ではありませんでした。ただ何でも3日ばかりこの山に泊めたいとばかり考えておりましたけれども都合よく運んで行きます。
で来年は賑やかに日本から参られますけれども、今度は、皆様方がお客様方を優遇してあげねばいけません。みんなは小屋もあれば台所や食堂、それから浴室やらそんな所に入って、お客様をここに泊めてあげる。そうすると喜ぶかもしれない。そしておご馳走は、ランカのお料理。ここのお料理もランカのお料理のように相当辛いんですけれども、少しその日本の人は用心を心して下さい。咳き込んでしまう。私なども、みんな少し咳き込むかもしれません。でも病気にはなりませんから、水でも飲んで口の中を冷やしていけばよい。
(昭和52年10月26日)


維摩居士
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立春

立春
人類の社会にも、一陽来復の時が来る。厳寒が立春の序曲であるがごとく、人類の恐怖は平和建設の前兆であると考える時、精神生活の精気は勃然として、一般人類の心の中に萌すであろう。我々は、その内心的確信によってのみ この危険なる時代の試練を克服することができる者である。人類社会の問題は、人類絶滅か、しからずんば人類大同団結かのそのいずれかである。それはまた暴力の勝利か、しからずんば精神力の勝利かのいずれかである。


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台北 花市

軍事基地反対世界大会に寄する書

軍事基地反対世界大会に寄する書
 第2次世界大戦後 日本国土と、その領海はアメリカ軍事基地の巣窟となり、これがために、平和の農村の耕地と、漁民の漁場は奪われ、庶民の生活は破壊せられしのみならず、進駐軍人の無法驕慢の振る舞いによって、婦人の貞操は蹂躙せられ、少年の非行は増加し、十字街頭は、あたかも野獣の孔穴と化しました。
しかのみならず、先年の朝鮮戦争、現在の越南戦争のためには、日本の軍事基地はややもすれば、直接戦争基地化せんとしております。
国民の不安に対しては、一片の条約によって、冷笑に付しております。
その名乗るところの「安全保障」とは、その実「危険保障」の偽りの贋言葉であり、その言うところの「国土防衛」とは、「他国の侵略」「亡国の門」を開く所以であります。
たとえ武力侵略に甘んずることありても、断じて他国の軍事基地を許すべきではありませぬ。たとえ敗戦亡国することがありても、他国の軍事基地を許すよりは、なお道徳的堕落を防ぎ得る利益が多いでしょう。
いやしくも外国の軍事基地を許し、外国の軍事力に依存して、自国の国土を安全に防衛せんと欲するが如きは、最も恥ずべき、愚かな現代の大賭博であります。
軍事基地と称する悪魔の醜面を明鏡に浮かべて、全世界の軍事基地を放逐し、廃棄せんがために、本大会の成功を祈る者であります。

 (昭和四十年十月)

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その5

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その5
仏教広汎にして、八万四千の法蘊と称せらるる。それは到底、我々の機根には手に合わない。
そこで「仏大慈悲を起こして、妙法五字の袋の内に、此の珠を裏みて、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」た。
如来神力品の結要付属の大法門は、即ち是である。是を信ずるが故に、南無妙法蓮華経と唱えるものである。南無妙法蓮華経と唱えるものが、伝染病の流行を防ぐのに役に立つというものではない。南無妙法蓮華経は国際情勢が、いかに切迫しようとも、変化しようとも、その間に在って、百難を排して、不撓不屈、唯一途に平和の歓喜を内蔵して、第3次世界大戦に介入することなく、永世中立を守り徹さんと欲する、大思想の信念の表示である。
人間の社会に、絶対平和の生活を建設せんとしたる者は、個人としては、釈迦牟尼世尊をはじめとして、耶蘇もまた非武装の生活をした。
しかるに一国家として、絶対平和思想高く、軍備を全廃して、古代兵器の刀剣さえも、一口もなく放棄したるものは、世界万国の歴史にも、いまだかって、あらざるところである。
日本国は、その人類史上空前の、世界平和の最初の使徒として、軍備を全廃し、戦争を放棄した。しかも今日、忽然として、世界大戦乱の渦は、身近に巻き起こされた。絶対平和の悲願を達成せしめんがためには、諸の他の戦争する諸国家を恃んで、我が安全を保障さるべきものと想うてはいけない。
世界の大戦乱の闇の中に、非武装の日本は、絶対平和の光明を掲げねばならなぬ。戦争への誘惑があり、平和に対する重圧があって、いかにそれが困難であろうとも、人類の絶滅、文明の総破壊の禍の火を消さんがためには、枯れ草を負うて、しかも大火の中を往かねばならぬ。
法華経の見宝塔品に六難九易の法門が説かれてあるのは、即ち是である。日蓮大聖人の開目鈔に曰く、「宝塔品の六難九易是なり。我等程の小力の者、須弥山は投ぐとも、我等程の無通の者、乾草を負うて、劫火には焼けずとも、我等程の無知の者、恒沙の経経をば読み覚うとも、法華経は一句一偈も、末代に持ち難しと、説かるるは是なるべし
     (昭和二十五年八月)

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