藤井日達上人

立春

立春
人類の社会にも、一陽来復の時が来る。厳寒が立春の序曲であるがごとく、人類の恐怖は平和建設の前兆であると考える時、精神生活の精気は勃然として、一般人類の心の中に萌すであろう。我々は、その内心的確信によってのみ この危険なる時代の試練を克服することができる者である。人類社会の問題は、人類絶滅か、しからずんば人類大同団結かのそのいずれかである。それはまた暴力の勝利か、しからずんば精神力の勝利かのいずれかである。


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台北 花市

軍事基地反対世界大会に寄する書

軍事基地反対世界大会に寄する書
 第2次世界大戦後 日本国土と、その領海はアメリカ軍事基地の巣窟となり、これがために、平和の農村の耕地と、漁民の漁場は奪われ、庶民の生活は破壊せられしのみならず、進駐軍人の無法驕慢の振る舞いによって、婦人の貞操は蹂躙せられ、少年の非行は増加し、十字街頭は、あたかも野獣の孔穴と化しました。
しかのみならず、先年の朝鮮戦争、現在の越南戦争のためには、日本の軍事基地はややもすれば、直接戦争基地化せんとしております。
国民の不安に対しては、一片の条約によって、冷笑に付しております。
その名乗るところの「安全保障」とは、その実「危険保障」の偽りの贋言葉であり、その言うところの「国土防衛」とは、「他国の侵略」「亡国の門」を開く所以であります。
たとえ武力侵略に甘んずることありても、断じて他国の軍事基地を許すべきではありませぬ。たとえ敗戦亡国することがありても、他国の軍事基地を許すよりは、なお道徳的堕落を防ぎ得る利益が多いでしょう。
いやしくも外国の軍事基地を許し、外国の軍事力に依存して、自国の国土を安全に防衛せんと欲するが如きは、最も恥ずべき、愚かな現代の大賭博であります。
軍事基地と称する悪魔の醜面を明鏡に浮かべて、全世界の軍事基地を放逐し、廃棄せんがために、本大会の成功を祈る者であります。

 (昭和四十年十月)

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その5

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その5
仏教広汎にして、八万四千の法蘊と称せらるる。それは到底、我々の機根には手に合わない。
そこで「仏大慈悲を起こして、妙法五字の袋の内に、此の珠を裏みて、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」た。
如来神力品の結要付属の大法門は、即ち是である。是を信ずるが故に、南無妙法蓮華経と唱えるものである。南無妙法蓮華経と唱えるものが、伝染病の流行を防ぐのに役に立つというものではない。南無妙法蓮華経は国際情勢が、いかに切迫しようとも、変化しようとも、その間に在って、百難を排して、不撓不屈、唯一途に平和の歓喜を内蔵して、第3次世界大戦に介入することなく、永世中立を守り徹さんと欲する、大思想の信念の表示である。
人間の社会に、絶対平和の生活を建設せんとしたる者は、個人としては、釈迦牟尼世尊をはじめとして、耶蘇もまた非武装の生活をした。
しかるに一国家として、絶対平和思想高く、軍備を全廃して、古代兵器の刀剣さえも、一口もなく放棄したるものは、世界万国の歴史にも、いまだかって、あらざるところである。
日本国は、その人類史上空前の、世界平和の最初の使徒として、軍備を全廃し、戦争を放棄した。しかも今日、忽然として、世界大戦乱の渦は、身近に巻き起こされた。絶対平和の悲願を達成せしめんがためには、諸の他の戦争する諸国家を恃んで、我が安全を保障さるべきものと想うてはいけない。
世界の大戦乱の闇の中に、非武装の日本は、絶対平和の光明を掲げねばならなぬ。戦争への誘惑があり、平和に対する重圧があって、いかにそれが困難であろうとも、人類の絶滅、文明の総破壊の禍の火を消さんがためには、枯れ草を負うて、しかも大火の中を往かねばならぬ。
法華経の見宝塔品に六難九易の法門が説かれてあるのは、即ち是である。日蓮大聖人の開目鈔に曰く、「宝塔品の六難九易是なり。我等程の小力の者、須弥山は投ぐとも、我等程の無通の者、乾草を負うて、劫火には焼けずとも、我等程の無知の者、恒沙の経経をば読み覚うとも、法華経は一句一偈も、末代に持ち難しと、説かるるは是なるべし
     (昭和二十五年八月)

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その4

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その4
絶対中立ということは、戦争の惨禍、害毒に、こりごりして、いかなる意味の戦争にも介入しない、戦の相手にもならねば、戦争の相手をも持たぬということである。平和国家の本質上、絶対中立は当然の常識である。
いかなる時においても、交戦国に加担すれば、それは戦争に介入することになる、戦争に介入すれば、戦争國家であって平和国家ではない。

首相は中立論を空念仏と言い、現実と遊離しておるもので、一種の迷信と嘲弄した。日本の中立問題は、空架な問題ではなくして、厳然たる日本の意思表示であるにもかかわらず、中立論を唱えることは、現実と遊離しておるというのは、切迫した国際情勢下においては、中立論は成立し得ないという意味である。
成立不可能の議論を称して、空念仏と言うたものである。
「如説修行鈔」の現世安穏論は、但だ「天下万民一同に、南無妙法蓮華経と唱え奉る」という、簡単平易、通俗普遍な、宗教的一修行に帰結されておる。これは国際情勢にもかかわらず、外交常識にもかかわらない。唯一種の宗教的信条以外のものではない。これこそ正に空念仏の嘲りをこうむるであろうことは必然である。
第3次世界大戦をひき起こさんとしておる、共産主義者と言っても、民主主義者と言っても、その志向する所の内容は、しばらくおいて、共産主義、共産主義と日夜に唱えておる者は、共産主義者でないとは言えない。
民主主義、民主主義と、朝夕に口ずさんでおる者は、民主主義者ではないとは言えない。共産主義者と言っても、民主主義者と言っても、どちらも倶に言葉の相違であり、文字の相違である。
共産主義ということが、直ちに侵攻するものでもなければ、民主主義という言葉が、直ちに保障するものでもない。しかしながら、共産主義という言葉は、共産思想体系を内蔵する。民主主義という言葉にも、民主主義思想体系を内蔵する。
その両思想の相剋、摩擦が、中国の内戦ともなり、朝鮮半島の戦争ともなり、米ソ戦争ともなり、第3次世界大戦ともなる。両思想ともに、闘い取るという思想の根底に、その禍が潜む。
我々は日本のためにも、世界のためにも、戦争の禍根をはらむ思想を克服して、平和の歓喜を内蔵する思想を受持せねばならぬ。平和の歓喜を内蔵する世界第一の思想として、我々は釈迦牟尼仏の仏教を信受する。
( 昭和二十五年八月)




世界各地での核実験 

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その3

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その3
衆生の機根は、自然として仏法に逆行する。
菩提を求めずして、煩悩を求め、安穏を嫌って喧騒を喜ぶ。
布施は行わずして、強盗を試みる。
子の親を視ること、猟師が鹿を見るがごとく、六親不和にして、天下皆争う。
仏法の中に、刀兵劫の相を説く。
人間の生活は唯、己が貪欲に従うにみ。
貪欲によって、父子、数々相傷うこと、鴟鵂(しきゅう)のその母を食うがごとく、君臣、あるいは相凌ぐこと豺狼の食を争うがごとく、人間の私欲、増長して、世は十悪の世界となる。一向、悪事ばかりの中にも、特に瞋恚の妄念が増長する。父母も我が子に対して、殺害の心を生じ、子もまた父母に対して、傷害の心を生ず。
兄弟、姉妹、君臣、夫婦の間においては、相互いに誹謗し、罵詈し、打擲し、損害することが、あたかも猟師の鹿を逐うがごとしという。
いわんや他人を視れば、さらに瞋恚の心を生じ、他人の声を聞いては、またさらに瞋恚の心を生ず。
瞋恚の心の熾盛なるに任せて、相対する者を皆、互いに殺害する。
相手の手足を分断しても、その忿怒はなお止まず。相手の首がその身を離れても、忿怒はなおやまず、その屍を蹂みひじる。
国土は純ら荊棘林となり、人の手に取る物は皆、ことごとく利刀となる。
かくのごとく変ずる時を、小の三災の第三刀兵劫災という。
人類絶滅、文明総破壊の恐怖をもたらす第3次世界大戦とは、刀兵劫災の時代である。この時代の特色として、十悪業道が盛んに行わるる。中にも瞋恚の心がはなはだしい。瞋恚の心が増長すれば、暴力、戦闘、殺人、破壊の行為は、当然の必要なる社会生活上の一大事として行われる。
暴力、戦争の必要性を信仰的に、宗教的に信ずるにいたれば、暴力、戦争の結果が、いかに恐るべき悲惨、凄愴の事になるであろう事がわかっても、それにもかかわらず、戦争の必要を信ずるが故に、これを行う。
第3次世界大戦の避け難き所以は、現代の人のこの戦争、殺人の必要性を信ずる点にある。
現在、暴力、戦争、殺人、破壊の必要性を信じつつあると同様に、生命の尊重性、平和の生活の必要性を、人間の社会生活の上に、必要なる法則としてこれを信ずることである。
       ( 昭和二十五年八月)




【イラクレポート】地獄の兵器実験場(2/2)  

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その2

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その2
「冥きより冥きに迷う人心、遥かに照らせ山の端の月」
人間は現実において、暴力戦争の行わるる世界においては、完全に平和の光明を見失うたけれども、それにもかかわらず、平和の光明を求むる心は、どうしても捨てきれない。
平和を求むる心は、清水が大地から湧いて出づるがごとく、混混として昼夜を捨てない。冥きより冥きに迷う人心には、思想・希望の彼岸に高く、平和の光明を仰ぐよりほかに、詮方はない。
貪欲、瞋恚・猜疑の煩悩の重なる山の端の月の光明は、はたして今宵、文明絶滅の恐怖に戦慄する地上に、光明を照らし出すであろうか。
解答を与うるものは、人類、現在の文明においては、宗教よりほかにはない。なかんずく仏教は、この解答を与えんがために説かれたるものである。
釈迦牟尼世尊の出世の本懐とは、即ちこの解答である。
妙法蓮華経 如来寿量品 第十六に曰く
「衆生劫尽きて、大火に焼所るると見る時も、我がこの土は安穏にして、天人常に充満せり。園林諸の堂閣、種々の宝をもって荘厳し、宝樹花果多くして、衆生の遊楽する所なり。諸天天鼓を撃って、常に諸の伎楽を作し、曼荼羅花を雨らして、佛及び大衆に散ず」
一閻浮提の一切衆生は、不幸にして三千年の昔、天竺の霊鷲山において、教主釈迦牟尼世尊が警告し給いし、一閻浮提に遍満せる大火に焼かるる時が来た。その火は三界の中、天上、地界、水中ともに、大火が一時に起こって、いずれの方に向かっても、出離解脱の門はない。
これを衆生見劫尽(しゅじょうけんこうじん)の時という。
この時にあたって、唯有一門の解脱出離の門が開かれてある。この一門は如来の秘密神通之力であり、高祖日蓮大聖人、末法応現の使命である。三界火宅を出離する門を、唯有一門と限定されてある意味は、民主主義にも、共産主義にも、ソ連にも、米国にも、およそ闘争を合理化し、戦争行動を肯定するところには、出離解脱の門は、絶対にないという意味である。
所詮、この地上の暴力に対するに、暴力をもってしては、冥きより冥きに迷う人心である。
暴力とは正反対は柔和である。原子爆弾とは正反対な諸天撃天鼓の妙音である。略奪でなくして、布施であり、闘争でなくして、忍辱であり、憤激でなくして、柔和である。殺人でなくして、礼拝である。
仏法の六波羅蜜、四無量心(慈・悲・喜・捨)は過去の菩薩行ではない。三界火宅出離の門として、ふたたび地上に開かれねばならぬ。
        ( 昭和二十五年八月)




悪魔の核兵器

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その1


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佛陀



刀兵劫抄(第3次世界大戦) その1
南無妙法蓮華経 戦争の発端は、双方、勢力の均衡状態とか、一方的勢力の優位とかをもって、計画的に防止されるものではない。
先般の日・米英戦争にしても、勢力の不均衡な、しかも劣勢な日本から挑戦したというではないか。
日本の絶対中立論が、戦争防止の手段として、迷信であるというならば、民主主義優勢論も、また戦争防止の手段として迷信であることになろう。
人類の社会生活の平和は、人類の創世記、天地の開闢以来耽った夢であった。
暴力闘争の悪魔の呪詛に呼び覚まされて、ここに現実の社会生活は闘争の歴史であったといわれるまでに、浅ましき悲劇を演じきたった。
闘争哲学を平和哲学に置き換え、闘争手段を礼拝手段に置き換え、唯物論を唯心論に置き換えざる限りは、考え直す手段も、方法も、何処にも存在しない。
闘争を否定して、平和に転向せしめんがためには、利害損得の打算、現実的な世界情勢を跳躍して、絶対平和の世界は、いかにして建立されるべきかを指導せる、根本原理を探さねばならない。
絶対平和の社会生活を、天国といい、浄土という名目をもって、人類に啓示せしものが、すなわち宗教ではないか。
「然らば即ち三界は皆仏国なり、十方は悉く宝土なり」と変ずべきではないか。人類絶滅の大戦争も、人類安穩の社会平和も、闘争の信仰を、平和の信仰に考え直しさえすれば「当知是処、即是道場」である。
平和を闘争に考え直すことも、思想体系の指南であり、闘争を平和に考え直すことも、また思想体系の指南による。考え直すという以上、それは精神的問題であって、物質的問題ではない。

アメリカに物質が欠乏するから、戦争が起こるわけでもなく、ソ連に物が不足するから、戦争が起こるわけでもない。
物質生産が、豊富なれば豊富なるに比例して、余計に戦争準備に発展する。
平和も戦争も、物質生産の多少、有無によって決定せらるるものではない。
平和も戦争も、唯精神的発達に、自ら決定せらるるものである。
ソ米両国は、第二世界大戦の終局まで、死生・安危を倶にした連合国の盟友ではなかったが。共産主義と民主主義とは、その当時一丸となって、枢軸国と死活を争う、激しい戦争を交えたものであった。
幸いにして、彼らが戦勝した後までも、朝鮮を三八度線で両断することも、満州、台湾、樺太、琉球を奪取することも、共同してやったことであった。
それらの点においては、共産主義も、民主主義も、共同してやれるのに、第二世界大戦が終了して、世界の人間が、東西、等しく戦争否定、平和愛好に憧れておる今日に、今さら、ソ米両国がその奉ずる主義の相違によって、第3次世界大戦を起こさねばならない理由は何処にあるのか。
ソ米ともに、相互に、侵略戦争の責任を、相手国一方の負わせ、相互に、自分の方は平和愛好国であるといっておる。そんな各自の我田引水の理由は、如何様にもあれ、かの恐るべき第3次世界大戦の地獄の釜の蓋を、ソ米両国が競うて、開けつつあることにおいては疑いない。
世界の人類は、日に日にこの焼熱地獄の釜の中に投げ込まれつつある。
現実に立って、世界情勢を判断する時に、米ソの衝突、民主主義と共産主義との死闘、第3次世界大戦を避け得る希望は、暴力戦争を肯定する人々の誰の説明の中にも見い出されない。
民主主義と共産主義との両陣営とも、各自に自分免許の平和論を唱えておるだけのことであって、実際は双方ともに人類絶滅のための進軍をいそいでおる。仮にこの中、一方が勝利を得て、地球上唯一の文明を建設して、その政府組織を作ったとしても、それは共産主義か、または民主主義になったというだけで、それで人類の社会生活は、絶対の平和が到来するということは、だれも保証する者はない。
(昭和二十五年八月)

進上 内閣総理大臣鳩山一郎殿書

進上 内閣総理大臣鳩山一郎殿書 昭和卅一年太才丙申七月八日

 貴官は曾て在野時代に、日本に再武装を強要せる米国のダレスに親書を贈て、日本国の新憲法第九条を改訂して再軍備の條項となし、自衛軍を卅萬に増強せんとする政策を説き、卑劣にもダレスの愛顧を買はんとしたる諂曲の噂を開いた。是れ人民の向ふ所を誤らしめ、国家をして再び危機に陥し入れるものである。
 貴官が首相の職に在て最近議会答弁の中に、非武装平和憲法を採用することは出来ないと云った。日本国の独立と平和の維持を只管軍事力に依存するが故に、卑劣にも外国軍隊の駐留を請ひ、神聖なる日本国土にアメリカ軍隊の無制限なる軍事基地設定を認めて之に協力せざるを得なくなつた。
 軍事力に由る獨立と平和の保護は昨日迄は萬国ともに国際間の常套手段として採用された。然し既に今日に於ては時代おくれの火遊びとなつた。アメリカの外交政策が軍事面に偏重するが故に、欧洲を始め到る処に於て排斥されるのみならず、アメリカ本国に於ても漸く厳しく批判さるゝに至つた。 軍事力の採用は明日に於ては世界平和の為に、絶望的な時代遅れの廃品となるべきものである。
恰かも鳩山首相の時代おくれと同様に、我が国が、東洋平和の安定勢力と成ることは必ずしも軍備を必要としない。再軍備に要する費用は寧ろ国民再教育に施して、真理把持、護持正法の訓練に依て、平和の使徒となつて、世界平和、文明指導の上に眞の勇者の力量を発揮すべきである。これこそ再び戦争をしない我が日本民族の雄々しくも起つて世界に示す信義である。
 是に反して妄りに軍事基地を拡張し、軍事力増強政策を採るならば、他国他民族に恐怖を興へ不信と疑惑を生ぜしむるのみならず。却て自界反逆難を起し、他国侵逼難を招き、国を亡ぼすに到るであろう。これ立正安国論の予言であ。国家民族の前途を憂ふるが故に敢て進言する。
 貴官は須らく軍事力増強の、弱者の政見を改めて、諸国家諸民族の正義心、慈悲心を信頼して援助と尊敬との風潮を創り出さんとする誠実なる努力をつくすべきである。
 いかなる主義の民族も妻子を慈愛せざる者は無い。妻子を慈愛する心は人類普遍のものであり、古今不変のものである。此自他相互の慈愛心を育てゝ行くことのみが我日本国の平和国家建設の大方針であり、世界人類の終局の目的である。是が為に国内的には農民漁民の怨嗟の焦点たるアメリカ軍の軍事基地を撤廃し、国際的には一方的軍備に加盟することを破棄すべきである。

 昭和卅一年太才丙申七月八日  日本山妙法寺 沙門  藤 井 日 達

立正安国論講讃

日蓮大聖人御降誕第七百年記念
「立正安国論講讃趣旨」―於大連王家屯
日蓮大聖人、我が大日本帝国にご降誕し給うてから、星霜漸く推移してまさに第七百年に征当する。受け難き人身をうけ、逢い難き仏法に逢い、持ち難き妙法を唱える、日蓮大聖人の御弟子、檀那とならん人々は、すべからく一乗の信心を決定して遥かに宿縁の深きを喜ぶとともに日蓮大聖人御降誕の意義を、信受し、光顕し、修行し、宣伝せねばならぬ。
七百年の乃往、大日本国東夷東条小湊の浦和の旃陀羅が家に、ご降誕ましませし父母生身の日蓮大聖人は、境を指せば閻浮提内、時を指せば末法悪世の、失神転倒の衆生済度の本願に牽かれて応現し給える、大慈大悲の止みがたき涙の雫である。
常無懈怠の汗の白玉である。凡そご一生の行相を承れば五濁の機根に応じ給える病行、嬰児行の御振る舞いである。もったいない次第である。法華経第二の巻の信解品には「希有にして無量無辺不可思議の大神通力まします。無漏無為にして諸法の王なり、能く下劣の為に斯の事を忍び給う、取相の凡夫に、宜に随って為に説き給う」と讃嘆してある。
七百年の乃往が、日蓮大聖人の始めではない。それから六十有一年のご生涯を経て六百四十年の乃往が日蓮大聖人の終わりではない。その始めをとえば、無量無辺百千万億阿僧祇劫の久遠の往昔で兜卒天上の弥勒菩薩も、その劫数歳時のきわまりなき長遠の程を譬うべき例も識らぬ、その終わりを尋ぬれば、無量無辺百千万億阿僧祇劫の未来際を尽くして所成の寿命未だ尽きず、常にここに住して法を説く、天上天下その劫数歳時のきわまりなき長遠の程を譬うべき例を識らぬ。
大日本国にもご降誕し給えば月支国にもご降誕し給う、南閻浮提にもご降誕し給えば北倶廬州にもご降誕し給う、海辺に誕生し、山中に誕生し、金星に誕生し、彗星に誕生し、虚空に誕生し、大地に誕生し、病床に誕生し、火葬場に誕生し、畜生に誕生し、外道に誕生し、地獄に誕生し、キリストに誕生し、汝に誕生し、我に誕生し、口に誕生し、眼に誕生し、誕生に誕生し、臨終に誕生し、畢竟して誕生し給わざる所もない。畢竟して誕生し給わざる時もない。誕生し給わざる時にも誕生し給う。
諸のあらゆる三世古今、十方世界の中にも外にもただ一人誕生し、百千万億乃至無量無辺に誕生し、同時に誕生し、異時に誕生し給う。天地法界森羅万象ただしこの日蓮大聖人のご誕生に趣いて、微塵の法だにもこの趣にすぎない。ああ、大いなるかな、大自在を極めたる日蓮大聖人のご誕生、この如き円融無碍の境界をば法身不思議のご誕生という。このご誕生を認識し、このご誕生を照見する者は、見思、塵沙の通惑を断じ、界外無明の別惑を一分断したる、十住十地の聖位を証得せる仏道の聖人にかぎる。
ユダャのエホバや、日本国の国祖や、此の如き等の、天上界や高天ヶ原やに留まりて山河大地、草木瓦礫を創造し製作したる、欲界下劣の主君をもって自ら称し、嫉妬、愛憎の煩悩に到りては、それを忍伏し、断尽する教法のありと言う噂だにも知らぬ神とでは、白雲万里、覚束無い話である。
凡夫の考案したる顕微鏡や望遠鏡やにも映って来ぬ、まして肉眼で見る事が出来ぬのは無論である。見ないから信じない、信じないから解からない、それに強いてわからせようとする所から話せば矛盾を感じ、示せば怪しみを生ずる。難信難解と申すのはこの事である。優曇華の時あって乃し一たび出るが如く、もし宿善厚き人は、たといいかなる見濁増の澆薄(ぎょうはく)(人情のうすい)
の世に生まれながらも日蓮大聖人のご降誕の法身難思の法門を聴いて、信受し歓喜し、賛嘆し供養する。
法身地のご降誕は如来秘密の所証である神通力の妙用である。衆生の機根の方からは分別して知る途はない。もし衆生の機根、次第に悪を捨てて善に還り、迷いを離れて悟りに至る者があれば、その修行せる善根力に相応してその心に信得しその心に認識せらるるように更に一段のご降誕の儀式を装い給う。これすなわち漢土、月支、一閻浮提の末代の一切衆生のために忝くも大日本国東海道安房国長狭郡小湊の浦和の日蓮大聖人のご降誕である。
日蓮大聖人のご降誕は、最勝無上の道徳善根、思想宗教がこの大日本国に実在するしるしである。
国土に威霊あって、日蓮大聖人の三大秘法建立の曼荼羅会となり、人間に機縁熟して日蓮大聖人の法華経色読の善知識となった。
富士の高嶺は日蓮大聖人のご降誕に相応したる準備である。蒙古の襲来は日蓮大聖人のご降誕を待たねば解決の道なき法門である。
もしも日蓮大聖人のご降誕を識らずに話も遠き浄土を勧むる宗旨があるならば、それは地獄に誘う手段である。日蓮大聖人のご降誕を識らずに仏性を見たという公案があるならば、それは天魔の允可(いんか)(許すこと)である。
日蓮大聖人のご降誕を識らずに国家を護る祈祷があるというならば、それは勢力が集まれる叛逆でも認めて諂いかねぬ邪法である。
日蓮大聖人のご降誕を識らずに社会がおだやかに道徳が行なわれるという学問があるならば、それは利口、追従、嘘八百の押し穴である。
日蓮大聖人のご降誕は当世日本国の中には議会召集よりさらに大事な問題である。遂には世界万国、人間、天上最大一の大事である。
かくの如き日蓮大聖人のご降誕は、釣瓶に落ちた天上の月影に過ぎぬ、指に染まった蒼溟海の泡沫である。天を仰がぬ者、海に入らぬ者には止むを得ぬ天上、大海の消息であり、影ではあるが天上の月をそのままに写しておるように七百年前の生身応現の、日蓮大聖人のご降誕の中に法身難思の神通、功徳が一として減りもせず、一として壊れもせずに全体婉然として収まっている。
生身の小湊のご降誕を離るれば、法身の法界のご降誕は全然衆生界に顕わるる途はない。
法身難思のご降誕によらずんば、かの小湊の浦のご降誕は、一匹の蛇が生まれたのや、一羽の鶏が生まれたのやと、その意義は相違はない。泥棒の誕生もキリストの誕生も、苦力の誕生もその功徳は大差がつかぬ。かくの如き見方では一切世間に光明のさすところを識るすべはない。
七百年の日蓮大聖人のご降誕が、すなわち法身不思議のご誕生の模様である。惜哉凡夫、飽くまで差別の妄情に封着せられて、生身と法身とのご誕生の円融無碍の相は信ずることすら出来ない。出来ない法門は差しずめ致し方がないとして、信ずることが出来、識ることが出来る、七百年前の生身の日蓮大聖人のご降誕の意義を誰が信受し、光顕し、修行し、宣伝すべきものか、大悲大慈と
と開けば、空虚なる言葉かと思い有難そうな概念かと思う、それは思う者の剛強暴慢の上から判じた僻見という者である。大悲大慈といえば精神修養の一標語かと思い、道徳規則の一方面かと思う、それは思う者の浅識短才の推測という者である。
大悲大慈といえば普天卒土の精霊である、無辺三際の核心である、仏心即是である。心をあらわした言葉というのではない。言葉に現れた心である。言葉に現れた手足である。日蓮大聖人のご降誕の意義である。
日蓮大聖人の皮肉骨髄である。立正安国論の諌暁である。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊の折伏である。一切諸宗無得道髄地獄の根源なりという公断である。キリスト国賊、智恵亡国、法政天魔、主上髄獄の判決である。
インド不穏の消息である。ドイツ壊倒の天命である。一天四海皆帰妙法の弘道
である。南無妙法連華経の撃大法鼓である。南無妙法連華経の万灯行列である。
日本山妙法寺の七百年御降誕会である。立正安国論の講讃である。
大小総別順逆向背、教え来たれば無量無辺の品が分かれても、これが要領を提ぐれば、日蓮大聖人のご降誕の四方八面である。
我いま立正安国論を講讃せんと欲するがための故に、日蓮大聖人はご降誕し給うて、あたかも第七百年に春秋まわり来たったのである。
我いま立正安国論を講讃せんと欲するがための故に、大日本帝国は、皇帝陛下重病に罹り、百官宰相破廉恥を犯すという不祥の瑞相が現れて来たのである。
我いま立正安国論を講讃せんと欲するがための故に、イギリス、アメリカ、世界万国乃至一閻浮提内の一切衆生、各その国を呪い、その隣を呪い、その身を呪って混沌として業火の焔を焚いている。イスラエルのキリスト教の遍満はこの災害の根源となり、ロシアのレーニンの赤化宣伝はこの災害の枝葉なり、癩児伴を牽いて、怨憎排斥の花と散らし、殺戮惨虐の菓を結ぶ、天魔の眷属はこれを迎え、鬼神の余党はこれを喜ぶ。
日蓮大聖人はご降誕し給える不思議の因縁ある大日本国の中にも、一人のこれを糾明し、呵責し、駈遣する方を識れる者がない。悪と言う悪はことごとく興り、道と言う道は斉しく隠れる。善神聖人天上に上がり、山に遁れ、邪神、悪人、市町に顕われ、廟堂に立つ。
盛んなるものは闘争ばかり、はやるものは疾疫ばかりで現世さながら修羅道の真ん中にかわった。かくの如き時を指して五濁悪世とも、法滅尽時とも名ずくる。大集経のいわゆる闘諍堅固、白法隠没の当相はすなわち現在の世界の為体(体たらく)である。国と言う国、家と言う家、人と言う人にそれに立つ道を示して、躓く処を扶け、日本の仏法を光顕し、世界の闇冥を除滅し、真実際の万国平和、君臣安楽の策を建てんがために立正安国論を講讃する。
 今上皇帝玉体安全、文武官僚徳政増益のために立正安国論を講讃する。
 日蓮大聖人の第七百年のご降誕をよろこばんがために立正安国論を講讃する。
 自ら転迷悔悟、即身成仏の大果報を求めて声も惜しまず南無妙法連華経と唱えんがために立正安国論を講讃する。
 衆生をして無上道に入り速やかに佛身を成就することを得せしめんとて南無妙法連華経と唱えしめんがために立正安国論を講讃する。
南無妙法連華経
惟時大正第十龍集幸酉年陽歴二月十六日
亜細亜大陸南満州日本山妙法寺大講堂征当第七百年御降誕日蓮大聖人弟子
                        沙門 行勝 謹叙
                        (大正十年二月十六日)
  「立正安国論講讃趣旨」

立正安国論講讃案内

【立正安国論講讃案内】 大正十年二月十六日
 
立正安国論と申すは征当第七百年前にご誕生遊ばされました、日蓮大聖人の御論策であります。この立正安国論を讃題して今私が講演致します。是非とも参詣しなさい。是非とも聴聞しなさい。その上で信仰しなさい。それとも冷評しなさい。悪口、罵辱、好きなようにしなさい。順逆いずれにしても、御利益は受けねばなりません。暇がないから参詣が出来ぬというのですか。馬鹿な横着をつきなさるな。現に飯を食う暇があり、現に薬を呑む暇があり、ましてお役所に出たり工場に出たり、はなはだしきは風呂に入ったり、髪を撫でたりする暇があるではありませぬか。髪は一年や二年撫でなくても、飯は一日に一食づつくらいは食わなくとも、あなたも死なねば、日本国も亡びはしない。立正安国論は今度聴聞しなければあなたも滅び、日本国も亡ばねばならん。
飯は是非に食わねばならぬこと、参詣はせねばせぬでもよいことのように愚案しているのでしょう。このような軽重を転倒した邪見に欺かれて、あなたは涜職事件をやったのでしょう。嘘もつけば殺人もやったのでしょう。兵児帯往生を遂げるのでしょう。大和民族を辱むるのでしょう。こんな了簡を懐く者は腐った豚よりも下劣の人間である。
一人や二人が、こんな畜生のような官公吏員になった間は未だ始末がつくけれども、役人という役人、教員という教員、乃至一切世間の者が、みなことごとくこんな畜生になったらどうなるか。既にやった者もあり、今やっておる者もある、これからやって恥じを曝すべき者もある。恥じを曝す時間に前後の隔たりは出来ても、みな兵児帯往生を遂げねばならぬ了簡を誇張し、実行しておることは一揆である。暇のある者がまさに参詣し、聴聞すべき法門ではない。人間の皮を被った動物は、必ず信仰し、修行せねばならぬ法門である。
死んだ者に回向する利益ではない、生きておる者を済度する利益である。斯様な軽重を転倒した邪見に欺かれて、日本国は滅亡せぬばならぬ。愚にもつかぬ経済論や、思想問題やのという精神病に、いま罹り、まさに罹らんとしている。
罹れば日本国家は瞬く間に滅ぶるということが幸いに憂国達識の者の眼に映って来たので、ぼつぼつびくびくし出した。しかし食うて世を渡る方より外に、何の習った覚えもない当世日本国の人間は、いやでも上も下もこの狂犬的精神病に罹らねば相済まぬ素質となっておる。
思想問題と名ばかり飾ったけれども、根本は食いたいという欲望に、竪からでも横からでも穴をあけて無理に食うという邪見の枝葉をつけ、掠奪でも、惨殺でも、出鱈目な花火を散らすより外、何にもならぬ騒動である。大学は増設してもしなくても、議会は召集してもしなくても、それで必ずしも日本国は亡びるというわけではない。立正安国論をば聴聞し、信受せねば、必ずや日本国は亡びてしまう。現在大日本国の危険災害なる思想界の傾向にのぞみて、いわゆる立正安国論の所説の安国の意義力量の確実なる、広大なることに驚かねばならぬ、信じねばならぬであろう。
他日もしや日本国が滅亡した暁には、誰も始めて立正安国論の講讃に、随喜せず、参詣せず、聴聞しなかった厳罰であると思い知るであろう。それが痛ましいから、ここに大音声をあげて、立正安国論を講讃して、まずあなたにも、日本国にも、ご案内を致すのであります。
一、 講本 立正安国論
二、 講師 藤井行勝
三、 制期 大正十年二月十六日開講~大正十年三月一五日講了
四、 時間 正行―唱題修行―昼夜
     助行―正課 立正安国論 午前六時ヨリ八時迄
        助課 日蓮大聖人御遺文素読 午後一時ヨリ三時迄
五、 道場 大連市外王家屯 日本山妙法寺大講堂
      「立正安国論講讃趣旨」(大正十年二月十六日)所収

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