藤井日達上人

和合僧

和合僧 
座をもう少し皆んな前のほうに詰めると、後の人が非常に楽に座られる。前のほうがあまり贅沢に座られたら後の人は窮屈に、ちよっと立って見ている。どんなことか前に座る人が後に座る人の事を心配せねばならない。
これが抜ける。自分の座る所だけ座れば良いと思う。人が何処に座るか考えなければならい。そこに座が偏ってはいけない。本当を言えば、皆んな前に前に詰めるのですけど、そうすると後から来た人の席が楽に取れる。自分の位置をしっかりと定めると大衆が一緒に動きます。自分だけの問題を考えて大衆の存在を無視しますと、ちよっとやっぱり今晩の席みたいのが出来る。大衆と一緒になって動かねばいけない。そうすると、賢い人も愚かな人も一体になる。弱い者も強い者も一体になって動きます。そうすると力強いものが出来ます。これがバラバラになって自分だけ存在しますと、後の者が働こうと思っても力を出す場所がない。みんなの力を総合する。これが和合であります。和合は力であります。一つになっていく。一つになる工面をせねばならない。それには、自己というものを大衆の中に置かねばならない。自分を大衆の外に置いて、批判する、ながめる、それから別に偉くなる。そんな事をすると、後の者はついていけません。離れます。一体になって弱い者、強い者、年老いた者も子供も一体になって動く、それでお題目ばかり唱える。これは一体になり得ます。座席もそう、食べ物もそう。部屋もそう住居もそう、艱難もそう、喜びもそう。一体になって動く工面を考えねばいかん。
(昭和五十二年九月二四日 仏足山)

大慈悲方便

【一閻浮提】
 日本山の教団は、僧尼の破戒、無戒の科(とが)に由って破壊することは無い。天魔外道の怨嫉に由って破壊することも無い。もしこれを破壊する者がありとすれば、空閑に住して経を読み、禁戒を持って、自ら勝想を生じ、他を下して視て、他の過失を説き、僧と和合せず、歓喜せず、同一水乳のごとくならず、安穏に山中に止住すること能わざる者の出現することである。
栂(とが)の尾の明恵上人、ある時、門下の者不善の僧を衆中より擯出せんと申し出けるを咎められた詞に曰く、何となれども清浄衆の中に居って不善を行う者は、諸天照覧し給えば、己と顕れ、己と退く習いなり、然るを汝、彼の不善を我に談りて彼を擯出せんとするは僧として無慈悲の至りなり。
仏は「実に有ることを自ら見るとも、僧の欠を顕すべからず」と誡しめ給えり、是,大慈悲方便なり、
浅智の能く知る所にあらず、又、「佛弟子の過を説くは、百億の仏身より血を出すにも過ぎたり」
と説かれたり。
又は、一には和合僧の中を云い違うるは五逆罪の其の一なり、四重を犯すに勝れり、汝。既に此の二の罪を犯せり。五逆罪の人の寸時も同住せん事恐れあり」と仰せられた。かくて不善の僧は門下にとどめられ、僧の不善を語りし清浄の僧は五逆罪の人として門下を擯出せられた。

山村行善上人嘆徳章

嘆行善院日財上人徳章

 惟時昭和第十四太才己卯年十月十四日、行善院日財上人の為に荼毘の式典を挙ぐ。
 
上人は我が日本国の鎮めとして、東海に聳え立つ富士の御山の麗なる静岡市の一商家山村文治朗氏の嫡男として生まる。幼少にして家計豊かならぬを憂ひ、登校通学さえも廃して一意専心家運の挽回につとむ。或は双輪の自転車を走らせて日影傾く天城山の嶮難を昇降し、或は一身に貨物を負荷して暁ふかく街頭を奔走す。到る所の華客商店みな此少年の誠意に感じて信用日々に篤きを加え、家運漸く再び興らんとす。父母も歓喜して将来を楽しみ、市中町内の者も亦、歓喜して其成長を俟つ。
 家は代々法華経の信心深く正法を随力演説して近隣の人々に正信を起さしめたりしかば、上人の此の如き家庭の雰囲気の中に自ら法華経の信仰に目覚めなんとす。時、偶々日本山妙法寺の草庵が市の近郊に建つに及び、松谷中佐の化導を被て日本山に参詣し、鼓を撃て妙法を唱ふるに至り、今生一期の方針を額定せんが為に一百日間の暁天日参を発願し、所願満足の朝ひそかに家を出て帝都に上り、日本山の帝都の道場として其名も吉祥寺の付近、三鷹村に開堂供養を営むの時、上人来り投じて俄に剃髪更衣の式を挙げんこと請う。時に昭和二年四月二十八日なり。
 家族は驚いて今日上人に出家せられなば誰れか家運を救ふものぞと強いて上人出家の意を飜さしめんと欲し、町内近隣の有志は、家族に同情し相計って上京し、上人の手を捉り足を捕て強いて郷家に伴れ帰らんとせしかども、上人出家の意を微動だにせしむること能わず、手を空しく引き帰しぬ。是に於いて近隣親族咸く皆怨嗟して日本山妙法寺の化導を悪口して曰はく、日本山は一家族を滅亡せしむる宗教なりや、日本山は牢獄囹圄に入るの門なりや、日本山は正法の仮面を被れる乞食の集団なりや、等と罵りて冴へ瓦石を擲つことさへありき。
 正法には、会ひ難く出家となること又復難し。上人は出家已来其身はたとひ静岡に到ることあれども、魔縁の競はんことを恐れて再び家に帰らずして、偏に仏道を精進し其功徳を父母に回向せんには如かずと願い給ひぬ。
 上人出家の頃、予も亦た多くは帝都の道場に在り、日々相共に市中近郊を撃鼓宣令して立正安国の祈念を発さんと欲す。田無、調布の町、中野、堀ノ内等、希には多摩の御陵、池上本門寺等未だ知らぬ道を同行二人、三人にて終日経行し、或は仏前に法華経を読誦して如来の真文を拝す。やがて皇城祈念の為に市中牛込に家を借りて移り住むや家賃の支弁容易ならず、飲食の供養殆ど絶ふ。遠く飲店を尋ね廻りて、残飯を請ひ、或は焼薯屋に詣て薯の皮を請ひ、是等を包み帰って纔に露命を続くよすがとなしぬ。炎熱の日、風雨の夜、帰り来て包みを解けば残飯は殆ど糊の如くなりぬ。
 毎日市中修行八、九時間経行したる疲労も忘れて、夏の夜の短かきにも、冬の夜の寒さにも同行の人皆床に臥して夢路を辿るの時、上人一人仏前に跪座して孤灯闇き所、手に法鼓を撃ち口に妙玄題を唱へ、低声小音に唱題三昧なり。此間、眼は法華経、御妙判に曝して一句一偈心肝に染めぬ。道心薄き者の一夜とても猶ほ堪え難き所なり。上人一期の宗学解了は実に斯くの如くにして無師独悟せるものなり。
 大正天皇晩年、偶々葉山御用邸の御祈念に関して葉山法難に随身し、葉山、鎌倉、藤沢等の諸所の警察の留置所に展転手洗廻しに抑留せられし時、一死を決定して飲食ふたつながら断ち、唱題修行に余念無く従容として死の期を待てり。此法難に由て、親の勘気も町内の怨嫉も稍々寛ぎ、上人出家の功徳を随喜する所有るが如し。
 上人天性温順の質、妄りに他と諍ふこと好まざれども、一旦正義正信を執っては、一切世間に畏るる所無く、特に官憲の不信横暴に対しては、獅子奮迅の勇猛を発せり。就中去る昭和十年の地久節奉祝行列に加わりて二重橋事件を起しぬ。決死の僧俗六十余名を率いて、かねて禁制せし警戒網を突破し正法祈念の威勢を示せり。
 日本山妙法寺が高祖大聖人の御本意を継いで二重橋の前に御祈念を発してより已に十余年に及ぶ。此間、遠方辺地の行幸の都度、或は北海道に、或は西海道に、どこまでも影の形に添ふが如く、日本山の大衆を率いて凰輦に随ひ、玉体恙無かれかしと祈念せざることなかりき。往くに旅費無くしては数々行脚し、泊る舎なくしては毎に草に枕しぬと雖も一片の赤心燃ゆるが如く、万障の艱難を排して進まざること無かりき。
 行幸啓の時は、凰輦の警護に当る者の間に遂に「日本山係り」と称する一斑を置き、警視庁の内に亦「日本山係」の一斑を置いて注意看視せしむるに至りぬ。是即ち勇猛なる反響なり。此外各地御用邸の在る所毎に必ず皆草庵を設けて常住不断に祈念を凝らせり。海外は且く措く、日本の関東地方の日本山妙法寺は概ね、皇室の御祈念の道場として湧現せるものなり。
 上人の孝心は、やがて父を度して仏門に入らしめ、鴻の台に清浄なる道場を建てて、父をして安住せしめたり。上人の慈愛は親近する者を化導して仏道に入らしめたり。遠くは西天印度に開教せる者及び交戦地の支那各地に従軍せる日本山の徒弟、近くは関東地方の諸弟子達等、熟れも上人の化導を被れる者ならざるは無し。名声普聞衆所知識の人なりけり。徒弟を度すれども皆悉く開教の第一線に送りて上人の身辺には、人手少なく而も用件甚だ繁忙なり。
 西天開教已来日本山に印刷部を設け毎月、西天の消息類を発刊し、或は時に応じて諸種の論説を出版せること既に十年に垂んとす。植字の校正に到るまで寸暇なき上人の手に拠らざるは無かりき。而も出版物の全部は非買品にして施本なり。出版に要する所の出費も亦皆上人の清浄なる護法心の変化なり。日本山妙法寺の法流を疏通せしむること、もし上人なかりせば殆ど望み絶えたる次第なりけり。此点上人の辛苦は予が尤も深く感謝する処なり。
 上人文芸思想に豊なる人に非ず。文は拙、言は訥、字も亦多くを識らぬ人なり。しかれども予が在天十年の間、親族、知己、道友はさておき日本山の草庵に住する者、日本山の弟子檀那と称する者の中に於いて最も多く、最も詳らかに時々の消息法運の盛衰より慶弔の種々につけて消息したる者はげに上人なりき。尤も多忙なる上人は又、尤も多く消息せる人なりけり。
 在天十年故郷の消息とし云へばいずれか懐しからざらむ。されど上人の如く懐しく心慰む消息は無かりけり。道の遠きに志の深く見ると是なり。最近、那須に静養すること凡そ一百ヶ日、其間、上人よりの消息も亦十余通に及ぶのみならず、其身親ら那須に来り訪ふこと前後三度なり。此外那須の随身の人々に対して消息せるもの数通あり。臨終五日まえにも長文の消息を認められたり。上人の文は上人の心のみ、此の心有るが故に即ち此文ありしなり。上人の消息は上人の説法なり。謙下の心を以て無上の法を演ぶ。間然する処無し。
 昭和五年八月二十五日、予西天開教に旅立つや、人ことごとく云ふ、予在らざる後の日本山妙法寺の法運は、内地に於ては衰微すること無くんば幸なりと。然るに上人一張の鼓を撃て一人帝都に止まり立正安国の祈念を断絶せざらしめんことを誓ふ。爾来十年の間二重橋の祈念を一日たりとも欠くこと無く帝都市中の街頭修行も亦、一日たりとも欠く事無かりき。かくて日本山妙法寺の正義の赴く所を天下に光顕し日本山の基礎を額立せしめたり。
 上人出家已来、三鷹、堀切、中野、鴻ノ台等近郊清閑の地に日本山の道場湧現せしかども、是等は何れも二重橋の祈念に便ならざるの所以を以て未だ曾て自ら止住せず。されば上人出家の一期は住むに家なき市中の放浪なりき。或時は割長屋の一室に、或時は物置の片隅に、或時は信者の家に同居して雨露を凌ぐこと実に十余年。若干の仏像、経巻太鼓等を護持し、幾十名かの弟子を率いて幾度展転移住するとも而も、王城祈念の便宜を失うことを欲せざりき。此間信者もあり不愍と云う者もありしかども、苟も上人の宿る処には毎に大法の鼓を撃つが為に心無き近隣の怨嫉を蒙り、追はれ追はれて其の居を移さざる可からざるに至りぬ。
 去年予が帰朝するにあたりても市中になほ予の膝の容るるの道場すら無かりける。日本山の行持は、出家の生活にして、出家の生活は樹下石上、雲所無住の生涯なり。彼の寺門、殿堂の経営は、日本山の正義に非ること分明なり。寺院に止住する僧侶の多きに比して仏法はいよいよ衰微の穴に堕つるなるべし。
 去年の春の彼岸に予が西天印度より帰朝するに当って始終随身給仕し、特に帝都に於ける仏事成弁を以ては自己の使命と覚り、毫も懈惓する所無し。予が今年の春の彼岸に再び帰朝して吉野山入るや又来て随身給仕せんとせしかども有待の依身数々病悩に倒れて起つこと能はざるに到て遂にやむを得ずして医師の治療を受け、苟も小康を得れば又直に仏事に奔走して静養の暇無し。
 四月の下旬予が再び帝都に入りしかども予も亦病魔に悩まされ、穏田の仮寓に師弟二人枕を並べて臥し倶に医師を請して治療を受くるに到りぬ。七月八日予は遂に静養に託して那須の温泉に湯治せしかども上人は帝都に残りて仏事に精進し遂に病を癒すのひまなかりき。那須の随身の人々に対して消息せられたる中に、今年に入りて病患に罹りし数を自ら数えて、十二、三に及ぶとて、一々病名を誌されたり。
 「一、助膜炎 二、腹膜炎 三、賢盂炎 四、腎臓炎 五、肪胱炎 六、神経痛 七、二転捻挫 八、吠傷 九、鼻孔加答児 十、急性胃腸加答児 十一、痔 十二、中耳炎」
 
 自分で勘定して驚きました。或人が未だ活きて居ますかと云われたそうですが実に其通りです。それでも今度は死魔にとりつかれませぬ。起つ時に起たうと思ふております。起ちそこなって生命を永へても詮の無い事です。目と心臓と手丈が患はなかった事は有難い事です。又当分痛い思いをしなければならないかもしれませぬが、今度はそんなに酷い事は無いと思います。今年は病み年でせうから来年は病まないでせう。しかし今病気とかどうとかは余り考へませぬ。痛ければ痛いから早く治さうと思う丈の事です。起つ必要に応じて起ったらよいのですから、今年の内に渡天出来ればよいがとそれのみ思って居ます」已上
 通身是れ病患、五体総て苦悩聚、只僅かに眼と手と心臓とのみが上人の為に病患を免れたりとて歓喜せられぬ。此の如き一身の大患重症の間に於て宛ら身の病患に関せざる者の如く只管病の重きを忘れ、死の迫るを忘れて只管長途の航海、西天に渡らん事をのみ念願し給えり。三障四魔も嬈すこと能はず、五鹿六欲も染まること能はざる大丈夫なり。
 さあれ四大不調にして昏倒失神するも猶ほ安静休養の暇無く、繁忙重畳する時に人の寿命何の縁にてか永らへ得可き。
 去月二十一日付の消息に云はく
「恩師猊下の御慈悲に逆ふやうで実に済みませんでしたけども、健康には留意して居りましたので冷水摩擦や岡崎博士の御指導の旨は守りました。謂はば無理と云ふのは暑気と豪雨の中の撃鼓宣令丈でありませうか。これらに一々気をつかって休んでは一体此仏事はどうなるでせうと思ふと恩師の御慈愛が解ら無い訳ではありませぬが、何卒我儘な此点丈が改める事が出来ませんのでありました。何卒特別の御慈悲に申て見逃し遊ばして頂き度ふございます。
 十一日柏田師と二人倒れました。急性胃腸加答児であります。始は柏田師の方が重かったのですが、私は余病の併発となりまして遂に今日に至りました。四人の中二人迄倒れ、而も看護を要する為に御祈念は只の一人しか続けることが出来なくなりました。」
 春の頃、高須国手上人を諫めて云はく、
 上人今にして静養するに非んば仮令治療するとも其甲斐あるべからずと云はれしに、上人答えて、「たとひ治療の甲斐無かるべしと雖も而も静養する余閑なきを奈何にせん。仮令此仏事の為に倒るることありとも毫も悔る所無し。」と。かくの如くして国手も遂に其精進を止むこと能はざりき。況んや他の弟子檀那等の人々がいかに諫め止むればとて、本より随う気色だにもあることなかりき。
 上人天寿を全ふすること能わず、帝都の仏事を完成すること能はずして猶は壮年の齢にして娑婆を去らせ給ひし因縁は疑ひも無く上人非常の精進の致す所ならずんばあらず。仏道精進して寿命を顧ず、是即我不愛身命、但惜無上道の心地なり。上人の寿命の短かきを慨かざる可からずと雖又上人の精進勇猛なるを学ばざる可からず。ああ、日本山の一門にして有為の法器は相ついでで皆少壮にして娑婆を去りぬ。慨く可きか喜ぶ可きか我それをこれを識らず。
 上人去年発願して曰く、今度の支那事変に処して須く我が身命を棄てて国土の恩を報ずべし。然るに先年楞枷の比丘、比耶頼佗那上人より寄贈されたる仏舎利を以て帝都に広く塔を起てて供養を発さんと欲す。然れば此仏舎利を近衛公爵に奉って護持し供養し給はば、我此身を支那の戦乱流血の地に埋めて正法治国の因縁を結ばんと。予これを聞いて曰く、
 近衛公に仏舎利を奉るはよし死を求むるには非なり。正法の行人には死魔の誘惑あり。我が事すでにに竟るの想を生じて残りの寿命を捨てさしむるなり。強いて死地を求む可きに非ざるなりと。
 然るに今年の五月二十五日機縁純熟し近衛公爵の為に仏舎利分布の式を挙ぐることを得たるに迨んで上人一期の希願略ぼ満足せるが如し。此仏事の後旬日を出でずして支那の汪兆銘和平救国の大義を懐ひてひそかに日本に渡り近衛公爵を訪ふてこれを訴へ決定心を得たり。
 上人是を以て偏に仏舎利分布の功徳現前せるものなりと称していよいよ大歓喜を生ぜられたり。是より上人は更に一歩を進めて帝都の仏事を興し如来の遺身舎利を尊重して鎮護国家の利生を施さんこと、彼の聖徳皇太子の佳例に倣はんと志し、病軀を策励して九月鴻ノ台の道場に詣で十七日間断食修行を勤め仏舎利奉迎の為に年内渡天の機運を促進せしめたり。
 此断食は上人最後の修行なりしか、健康回復の希望は消えて衰弱のみ加わり忽ち病勢進みたりとは雖も断食中に信解品の父子相迎の深義を悟りて大歓喜を生じ、衰弱やや回復したる九月二十四日、那須の仮寓を訪ふて帝都の仏事開宣の為に植村刀自を伴ひ、京都の村雲尼公を訪ね、亜で渡天の許容を求めたり。
 上人曰く、「幼少より無能なりしが偶々善智識に会ふて正法の中に出家修道することを得たり。譬えば、窮子辛苦して周く諸国を流れ遂に長者親父の門に詣れるが如し。皇城の祈念、街頭の修行型の如く日々退転なく勤め来たりといえども只是日本山の年中行事として勤めたるのみ。譬えば、窮子長者の舎に入て諸物を出入するが如し。
 今日漸く、我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ等と誓ひし高祖大聖人の大誓願、応に我が身の誓願となりかはって、天下泰平の祈念の秘要建立の修行の日々其快爾謂ふ斗り無し。是れ全く善智識に会える幸慶なり。立正安国の誓願修行は我が無限の光明遍照界なり。譬ば窮子、長者、親父の一子となりて財宝無量求めずして自ら得たるが如し。」云云
 十月十一日の晩景に予、前後四ヶ月目に帝都に入る駅頭に上人の影を見るべくして然も上人の影を見ず。上人の容態軽からざる為也。予は穏田の仮寓に入る。夜半忽ち上人の危篤を報ず、とかくして明くれば十月十二日高祖大聖人御入滅の霊地池上の御会式に詣で御通夜の修行に障無からしめんが為に、予も床に臥て薬を用ひけるが、上人の容態刻々変り行きて、遂に出る息は入る息を待たずなりぬとのしらせに驚き、直ちに車を藉て淀橋に赴きしが、此時遅く已に道場の中よりは臨終の御題目の、撃鼓の音に和して昌に起れり。
 必死不治の病人のためには良薬も亦変じて毒となるならひなり。上人は自ら治病の手当も怠らざるのみならず、諸方の名医を尋ねて診療を受け一日も早く全快せしめんと藻掻かれしかども、其結果は遂に色好ならずして却て夭折の悲しみを招きぬ。一期の命数限有る所以のものか。最も肝心なる御祈念の責を負へる帝都、最も多忙多用なる帝都の僅かに二、三の随身の看護の裡に上人は遂に大患より大死に到りぬ。看護の人々己が身命に代えて上人を活かさんと務めたりし志もあわれ一抹の煙となりぬ。
 思いきや、十年を経て偶々日本に帰り来るや、未だ少壮の齢の上人の為に臨終末期の水を汲まんとは。
 上人逝て帝都の法運塞らんとす。上人逝て広宣流布の金言も忽ち疑を生ず可きに似たり。上人逝て日本山の正義応に隠没せんとす。法孤り弘まらず、これを弘むる人にあり、其の人今や無からんとす。噫、悲しい哉、痛まし哉、窓を打つ時雨の音も惨として上人の枕辺を囲む人の咽ぶ涙に和するが如し。
 往昔弘安五年十月十二日は高祖日蓮大聖人武蔵国洗足郷多摩川の辺り、池上右ェ門の太夫、宗仲が家に入て御入滅遊ばされし御逮夜なり。爾来六百六十年遠近百万の人撃鼓唱題の声夜を徹して梵天に到る。
 今年昭和十四年十月十二日は行善院日財上人、当時の王舎城たる東京の淀橋なる川崎信士の宅に於て老少不定の掟とこしえに世の無常を示しぬ。上人逝て日本の柱倒れなんとす、上人逝て日本の眼目失せなんとす、上人逝て日本の大船覆らんとす、上人逝て日本国は今日滞涙、滂沱、悲雨瀟々として無窮の憂愁を催ふす。
 一切の大事の中に国の亡ぶるは一大事なり。日本国には近年頻りに三災七難競ひ起り内憂外患交々到るの時、上人涅槃に安住す可からず、速に上々品の寂光の往生を遂げ順臾に還り来て再び身を日域に受け、皇国日本に立正安国の祈念を唱導し、東方亜細亜の光明を揚げて、一天四海皆帰妙法の暁を期し世界万邦を挙げて通一仏土の大観を成就せしめ給はんことを。
  昭和十四年太才己卯年十月十七日

          日本山妙法寺  沙門         日 達 敬白

ヨーロッパ開教

ヨーロッパ開教
 ヨーロッパ開教もようやく糸口がつきました。この開教もお金を出して土地を買い、そこにお金を出して宝塔を建てる、そのような仕事では役に立ちません。宝塔は建ちましょう、土地は出来ましょうけれども、ヨーロッパの人を教化しない限り何の役にも立たない。日本に宝塔を建てたのと同じ事であります。
ヨーロッパの人を教化することが出来なかった為にここの開教もだいぶ足踏みをしました。けれども時がまいり、開教の糸口としてお仏舎利塔が建つようになりました。
お仏舎利塔は日本山の建てるものでありますけれども、これは一つの建築ではなくて、ヨーロッパの人々への教化の本尊であります。
人々が皆そのもとに集まり礼拝し供養し賛嘆せばならない。ヨーロッパの国々はキリスト教であります。それはキリスト教国の人々が仏教の宝塔建立を喜んでいる。
最初に発願しました英国のトム・ハンコックという人もこの宝塔建立の発願がいかに大きい良い仕事であったか、今は解りました。
ミルトンキーンズが出来ら、英国各地に宝塔を建立するお言っているそうです。ヨーロッパの人々を教化する。それができなければ布教にならない。    
西天開教も宝塔を建てて、そこで渡世ができ麻薬があ吸えるというのでは駄目。インドの人々が集まって礼拝し讃嘆するものでなければならない。
多宝山には日本から送ったチェアリフトがかかっており、乗りたい人が大勢で間に合いません。
乗らない人は山道を分けて登っていく。山道を登ることの出来ない人々は麓から宝塔を拝んで帰っていく。それほど大勢の人々が宝塔参拝にきております。この人数がどれほどかというと、リフトの乗り賃が一ルピー、この金の集まりがビハール州政府の財政の上に大きく役に立っております。それほど精神的な力が物質的に現れていく。
また、インドの人々の中に日本山の行き方を信ずる者ができ、ご出家となりました。信者となりました。
階級の上下を問わず、こういう人々が出てきました。しかし信心は続けていきました。そのため最近では政治家たちも現代の
インドの為に、日本山の思想・信仰がどんなに役に立つか、ようやくわかってまいりました。
「開教」というのは、寺を建てることとか、別荘を買収することではない。現地の人の信仰を呼び起こすこと。これなくしては開教は立ち消えであります。
この度、ウリーランカのJ・Rジャヤワルダナ大統領が来日して政府関係者と援助や借款というような話もしたでしょうが、大統領は仏教国としての日本とスリーランカとを親しく結び付けるという目的をお持ちでした。それが誰に会っても、すぐに口に出てきます。今上天皇とのご会見でも、天皇が初めて仏教の話をされていたとの事です。(1979年9月28日)


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英国・ロンドン仏舎利塔


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インド・霊鷲山リフト 

チャルカとインド独立と御題目

チャルカとインド独立と御題目 
お断食も大層安楽に大勢御修行して皆んな無事に成満しました。諸々の魔性も降伏することが出来たと思います。
今年は有難い年で、西天開教にかかりまして四十四年間インド・ネパール・ランカ・ビルマ等に法を弘めました。で、その中で最も力を入れたのがインドでありました。インドの仏教復興、これは、お釈迦様の八正成道の御霊地であります。しかし、英国の植民地になっておりました。その民衆が独立運動を起こしました。だいぶんと、何代か、弾圧の下に苦労しましたが、最後のマハトマ・ガンディーと申します。元、弁護士でありましたが、この人が独立運動の方法を武力や経済力や政治力に求めずに、宗教的な信念の上に、精神の上に、独立運動を成功させようと思いました。時の人は、そんな事は出来るものでない、そんな事を考えるのは真昼に夢を見たようなことだと、嘲りました。私はその独立運動の最中にまいりましたが、日本の総領事や大使に会いました。それから、インドで、綿花を買うとか、買わないとか言う様な混雑が起こりました。日本はインドから綿花を輸入しておりました。その売買の交渉に政府の高官が来まして、シムラという所で会合を開きました。勿論その時のお相手は、英国の官権でありました。そこえ私も参りまして、日本の高官達にお話しましたところ、みんな「そりゃ、あんたらガンディーの独立運動は面白い話だけども、そんな事が出来るものでない。で、又、英国もインドを手放しては経済的に建っていかない。どうしても、無理をしても何でもインドは英国の植民地として最後まで、これは、保留するでしょう」そういう話でありました。
世界中誰でも、非暴力で何をするかと言うと、糸紡ぎをする。これが独立運動だという。それから皆んな生活を自分で努めて質素にまかなって、自分で何でも食べる物も作っている、そんな事が独立運動。それはなかなか結構な話だけども、一方、これを占領して統治しておる英国が、「良い事をなさるから独立させましょう」とは言わない。これはどうもガンディーのお話は夢物語だと、皆そう言っておりました。それにガンディー一人だけ「私はなるほど皆んなの言う様に夢をみているんだ」という、「そうかも知れないが、しかし、世界の情勢をよく前途を見極めると、世界はやがて、私の夢の後を追って、みんな夢を見ねばならなくなるだろう。その第一歩はこのインドの独立。これが必ず、あの時を得て、時に当って成功する。天の神様の裁きは既に近づいた。必ずインドは独立する」と言う夢を見ております。
ガンディー翁はそんな事を言っておりました。真に夢物語であります。精神的なものでありますから大砲を買い込んだとか、軍艦を求めたとか、兵隊を作ったと言うんならば、独立運動もちょっとは成功するかもしれない。何も持たないで、そして皆んな自分で貧乏な生活を楽しんで、糸紡ぎを木綿糸を紡ぐ、私も真似ました。こうして、ひねってですね、最初は糸を綿から引き出す。その次にはちょとした箱の中に、木綿車の形をとった布を仕込んで、その車を回して糸を紡ぎます。そんな稽古をしました。糸紡ぎ。そこで私もガンディーに会って考えましたが、成程経済的にこれが成り立つか否かは問題、しかし、この独立をせねばならないという、この信念を国民全部に持たせる事はこの糸紡ぎが一番早い。貧乏な人が皆んな遊んでおる、仕事のない人達でありますが、これが皆んな糸を紡ぎます。綿はインド中に何処にでもある。それを皆んな紡げば難しい事ではありません。子供でも大人でもします。私は不調法で、あまり糸は紡げませんでした。けれども、これを紡いでおると興味深いものであります。一心にそれをやらないと糸は出て来ません。切れてしまいます。いわゆる三昧に入ります。なんの三昧か、独立運動の三昧であります。インドは我々は独立せねばならないという。この願いで糸を紡いでおりました。世の中に糸紡ぎの機械を発明した事も良い事でありましょうけれども、自分で糸紡ぎその結果がインドの政治革命となります。独立運動の完成になると聞きますと、どうもこれは夢でありましょうが、驚くべき奇跡であります。これで出来ると、ガンディーは申します。出来たらば大変で、けれども出来なくても別に恥ずかしい事ではありません。出来ると思うて糸を紡いでいる。どなたにも迷惑をかけません。こうした精神運動を見て来ましたが、私もこのインドの独立運動に興味を持ちました。そしてガンディーに合うて、それからガンディーの塾に留まって、糸紡ぎの稽古をしました。初め綿を作るであります。糸を紡ぐ様な指程の綿をこしらえます。それを作るのに弓みたいなもので、はたきやりました。それで私不調法で怪我をしました。親指の爪かなんかを少し起こしまして、そしたらニラベンという英国のペルシャ艦隊の司令官の娘が、やっぱりこちら来ておりましたが、ガンディーの独立運動に興味を持ちました。で、結婚も何もせずにガンディーの元に飛んで行きました。一生このインドで最後まで暮らしました。この人がガンディー翁の側におっていろいろお世話をしておりました。
私が怪我をしたと言って、大変だ。それからガンディーの所へ連れて行きました。この日本のお坊様怪我をしました。そしたらガンディーが「日本の兵隊は強いから泣かない様にしなさい。」そう言ってふざけておりました。「日本の兵隊さんは強い・強い」それで、私、頑張っておったのでしょう。やがてそれも治りました。こんな時から私は余念なく御題目を唱えておりました。何の事か、ちっとも皆んな判りません。ところがこのガンディー翁がですね。太鼓を撃つ様になりました。「そりゃあ日本の宗教運動って恐ろしく勇敢なものだ。こりゃあ私も太鼓を撃とう」と、そうして、「お祈りの言葉、これは素晴らしい言葉で私も習いましょう」南無妙法蓮華経を唱えてお太鼓を撃ち出しました。皆んなが呆れまして、「どうしたのか」と言う。私もどうしたのか知りません。本当にこの南無妙法蓮華経を唱えて太鼓を撃つ、なんの説明もない。私はガンディーの糸紡ぎが独立運動の御祈念として、必ず成功する事を信じたように、ガンディーはこのお太鼓を撃って御題目を唱える、この御祈念を又信じました。仏教復興の大運動として受け取りました。
そんな関係で始まりまして、大層ガンディー翁も私がその塾に居ることを喜びまして、私そこに入るについては、身ですね、随身嬢の居った部屋を空けて、ガンディーのすぐ隣ですけれども、そこへ入れてくれました。で、そこへ入りました。何も判りませんが朝からお昼、晩と三回、御祈念をしております。それに出ねばなりません。そうしたところが、一夜、お月様がきれいに窓から射し込みます。
で、月を見て色々感想に耽っておりますと、一夜ほとんど眠れずに過ぎてしまいました。夜明け方ちょっと眠りましたら、もう目を醒ますとお勤めが始まっておる時間であります。大変だと思って行きましたら、やがてお勤めを終わってしまいました。恥ずかしくて、失敗しましたと思ってこまりました。まず、そんな事何べんもありません。一片だけどうもちょっとお勤めに遅れました。お勤めの席に出ますと、あちらは、その頃はヒンズー教のお祈りであります。私も何か判りませんけど、判る言葉だけ向こうについて私も唱えております。こうして共に暮らしておりましたら、ある時に塾生がワルダで結婚式をあげました。私にそこえ出てくれという。ガンディー翁が主催するわけです。参りまして、飾りと言っても木の葉を取って門前にちょっと掛けてあっただけです。そうして席に着きました。その時でありましたか、ガンディー翁が私にインド語を習えと言う。習ったかと言う。「一・二・三」ガンディー翁が言いました。私に次を言えという。私が「四」と言うと、ヒンズー語で一・二・三・四を「四」と言いましたら、皆がどっと笑って、年寄り、若者揃って一・二・三・四の話をしておりました。ガンディー翁の独立運動の位置は、そんな所でありました。和やかに暮らしておりました。そうしておりました時に、一緒に最も親しく暮らしたその随身の人や、それから相談相手になっておった御弟子さん、ビホボッティ。これらも一緒に、私と年が前後しておりました、その人は未だに生きております。次第に年を考えまして、政界にはめったに出ません。
(昭和五十二年十一月四日 仏足山)

アヒンサ 3

アヒンサ 3 (昭和三十八年頃)
中印国境紛争についてこれを案ずるに、中共は元来殺人破壊を前提として社会革命を遂行せんとする唯物主義の暴力的国家である。インドは元来非暴力を前提として政治革命を達成せる道徳的平和国家である。
すなわち平和の手段をもって平和の目的を達せし革命歴史上空前の平和国家である。
かくのごとく建国の基礎を異にする中印両国の紛争は、暴力と非暴力との対決であり、殺人と不殺生とのトーナメント(競技)である。
「諸君が、外国の侵略に対するには武器を採るより他に方便はないと考えたり、または日々起こる騒擾・暴動・反目の鎮定には、武器なくしては不可能であると考えるならば、それは誤解も甚だしいものである。
組織だった非武装の抵抗は、深夜家宅に侵入せる盗賊に対するよりも、容易に処置ができ、それが最高の形式のアヒンサと呼ぶに相応しいものである」
「外国の侵入に対して、インドは防衛力を持っていないという者がある。私は彼らが非暴力を信じぜざることを知って落胆した。非武装のインド民族がこの広い分野において、非暴力運動に集結することが、インドを護る唯一の武器であると信ずるものである」
「インドの好戦的な人々はどうであろうか、と不信に思う。私はそれゆえにこそ、会議派の人々が祖国を防衛する為に努力すべきことは、シャンティ・セーナの結集であるという。これは全然新しい防衛の試みである。会議派の他に誰がそれをなし得ようか。会議派は一つの分野において成功した。もしわれわれが非暴力部隊を充分に訓練していたならば、この新しい分野において成功することも。また確実である。」
「問一、強力な独立国家インドは、自己保存の手段としてサッティヤグラハを国の手段として採用する時に、インドは他の独立国家によって、あるいは侵入されるかもしれない。そのとき、いかにして自国を防衛するでしょうか。辺境において侵入軍勢に対抗すべくサッティヤグラハ的行動形式はどんなものでしょうか。あるいはサッティヤグラハ運動者達は敵手が国を占領してしまうまで、行動を差し控えるでしょうか。
答。私は国家は人民の大部分が非暴力であれば、非暴力を基礎として管理され得ると信じる。インドはそんな国家になる可能性を有する、広い世界の中において唯一の国である。
インドが純粋の非暴力を通じて独立すると仮定すれば、インドは同じ手段によってそれを保持することが出来るであろう。もし最悪の事が起これば、非暴力には二つの道が開かれている。第1の道は所有物を譲渡する、しかし侵入者と協同しない。
このようにネロの現代版がインドに下れば、インド国家の代表者たちは彼を侵入させはするが、人民の援助は何も得られないぞというだろう。人民は服従よりもむしろ死を選ぶであろう。
第2の道は、非暴力的方法を訓練されてきた人々による非暴力的抵抗であろう。彼等は侵入者の大砲の前に糧秣(りょうまつ)として非武装で我が身を差し出すだろう。
両方の場合、その根底にある確信は、ネロといえども全く慈悲心がないとは考えないということである。男女みな侵略者の意思に身を保全するよりは、天真に死んでいく。その思いがけない、後から後からと続く光景を見ては、その侵入者の兵士といえども心を和らげるに違いない。実際的に言えば、この場合、武力抵抗するよりも人的損害が恐らくは少ないであろう。
軍備要塞の支出は全然ない。人民がかく訓練された時、その道徳的水準は想像もおよばぬほど増すであろう。その男女たちは武力戦争において示されるものよりは、はるかに優れた種類の勇敢さを示すだろう。どの場合にも、勇敢さは他人を殺すことにあらずして、自己が死に赴くということである。
アヒンサという法則は、国境や国土を防衛する法則ではない。アヒンサ(非暴力)という法則は、人類の生命を守る法則である。近くは国民の生命を守り。広く世界人類の生命を守る法則である。」
「私は貴方たちが敗北したからいうのではなく、戦争なるものが本質的に邪悪なるがゆえに、戦争停止を訴えるものである。貴方たちは戦争に勝つことではない。なぜなら貴方たちは、ナチスよりもさらに冷酷にならなければならないから。
いかに正義のためとないえ、昼夜間断なき無差別の殺人破壊は、決して正当化されるものではない。今日行われている非人間的な戦争を、正義と呼び得るはずはない。私は英国が負けることを希望もしていない。貴方たちが、ナチスとその醜い戦争を行うことを望まない。私は貴方たちに最も勇敢なる兵士に相応しく、より気高く、より勇敢な道を示したいと思う。
私は貴方たちが非武装にして、非暴力の武器をもってナチスと戦われんことを望む。貴方たち自身、ないし人類を救わんがためには、その手にしておる一切の武器を、全然不要のものとして放棄せられんことを希望する。
貴方たちの国家を略奪せんとしておるヒットラーやムッソリーニを招きいれ、その沢山の美しい建物の建っておる美しい国を、彼らに与えてしまいなさい。
もしナチスが貴方達の家に住みたいというなら、その家を明け渡しなさい。
また、われわれよりもずっと賢明なる貴方達は、このアヒンサという比類なき新しき武器をもって、ドイツやイタリアの友人に対する方針とせられたならば、実際、過去数ヶ月の欧州の歴史は異なったものとなったであろう。欧州には無辜の人々の血と、小国に対する暴行と、増悪とは、なくてすんだであろう」
以上は、第二次大戦の初めにマハトマ・ガンジー翁が英国に訴えた言葉である。今日、私はこの言葉を挙げて、インドの諸君に訴えたいと思う。もしこの言葉が中印国境紛争解決に利益することがあれば、私の本望である。
     (昭和三十八年頃)


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ブッダ

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キング牧師 

アヒンサ 2

アヒンサ 2
欧州文明の華々しいネオンサインの中に近代国家と称するものが現れた。かくのごとき強大なる国家群が地上に続々と現れては、彼等は羊の如く柔和に、小鳥の群れのごとく明朗に、共存共栄する道理はない。
国家自衛のためにと言って、一切の学問技術はすべて殺人破壊の研究に向けられ、強大なる国家の特権として極端なる殺人破壊の手段が採用されつつある。それは原水爆と称する核兵器の競争・実験・使用、その他の核兵器の発明である。核兵器の実験による被害がいかに多くの人類に災害を与えつつあるかを知って、民衆は大挙して反対を叫べども、かの強大国は馬耳東風と聞き流して、ますます人類一般に危険を与うる程度を深めつつある。
かくのごとき近代諸国家群は、自ら好んで「反宗教」を標榜する国家もある。共産主義諸国はすなわちそれである。しかざる国家といえども、国防自衛の唯一の基本となる時に、これと反対する不殺生・非暴力を教うる宗教は、国家の方針とは完全に分離されねばならない。かくて近代国家はいずれも無宗教化されてしまった。近代国家とは自衛の名を借りる殺人破壊の大集団にほかならない。
アヒンサ(不殺生・非暴力)は元来、宗教の根本原理である。近代国家が無宗教・反宗教なるときに、アヒンサを国家の基本方針として、国際問題なかんずく外敵の侵略というがごとき、それはどこにも起こり、いつでも起こりつつある、現実の恐ろしき新天地に採用することは出来ない。この時インドは果たしていかがすべきであろうか。
一般国民はもちろん國家の指導者達も、個人としては信心深く宗教的倫理体系を認めながら、ことひとたび国家の行政・外交問題となっては、宗教的信仰は閑却され、国防自衛の手段としては、全然無視されておる。ここにおいて平和なる市民も紡車(チャルカ)を捨てて銃剣をとり、いまだかって牛馬をさえも殺さなかった青年が、もって他の人間を撃つようになった。実に現代の悲劇である。
近代国家の防衛と称するものは、今日、核兵器の時代においては直ちに人類自滅の終着点に向かって暴走しつつある。しかもこの危険を抑止すべき制動器は現代文明の中には何処にも見出されない。
しかるに人類はいたづらに自滅せんがために努力しておるものではない。人類自滅の暴走を抑止すべき制動器は、古来、多くの聖賢・諸仏・菩薩たちによって到るところに簡単に備えつけられた。これを宗教と呼んで人類は信奉し随順して自滅の災害を免れてきた。
宗教の根本原理は、個人の道徳的生活の基準を示すと同時に、さらに広く社会的・国家的、ないし世界的に発展し繁栄すべき方向・目標を与えた。仏教においては個人的倫理体系を毘奈耶奈と名づけ、または小乗宗という。社会的・国家的、ないし世界的発展法則を摩訶耶奈と名づけ、または大乗という。

大乗に指示する究極目標は、個人的には成仏往生といい、世界的には寂光浄土という。現実を離れずして現実から飛躍する。
人類進化の究極目標は、進化論には少しも指示されていない。現代科学が目標なくして、みだりに進化発展するところに危険がある。
かの無数の巨大なる怪獣、恐竜の類は、自己保存のためにみだりに進化し発展して、かの恐るべき無敵の武器暴力を作り出して、これによって自ら亡び去った。今日、猛獣毒蛇の類が次第に地上からその醜き姿を消しつつある所以も、彼らがみだりに進化発展せしめたる自己の武器の災いによる。
しかるに他方、その身に何ら自己防衛の武器うを持たない人間が今日地上に繁栄しておるという現象は、これひとえにひとろり人類には宗教があったからである。人類は宗教の指示せる目標に到達せんがために、常に奮闘せしがゆえである。
もし人がアヒンサの法則を棄てて、単に暴力に頼って自己保存の手段を採用するならば、人類の自滅は必ずしも今日を待たずして刀槍を発見せし時に既に自滅し了ったであろう。しかもその危険を救いしものは、他の武器や暴力にあらずして、アヒンサの宗教的信念が人の心の中に威力を発揮せしがゆえである。
    (昭和三十八年頃)


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ガンディー

アヒンサ 1

アヒンサ 1
私は日本国から来た一個の巡礼者であります。私は三十余年以前に、日本国の仏教徒の一比丘としてインドに渡り、各地の仏蹟を巡礼致しました。なかんずく王舎城耆闍崛山は、私が不断に唱えておる南無妙法蓮華経の経典を八か年にわたって釈尊が説法したまえる霊場であり、またこの南無妙法蓮華経を仏滅後二千年を過ぎて末法と名ずくる悪世、闘諍堅固と名ずくる人類自滅の戦争の時代を救わんがために、釈尊がお弟子に付属されし霊場であります。
その付属を受けし仏弟子は時を隔て今より約七百年以前に日本国に生まれて、日蓮と名乗って南無妙法蓮華経を弘通しました。
私のためには王舎城耆闍崛山は仏蹟中の第一の仏蹟、聖地中の聖地であります。しかるに釈尊成道の地仏陀伽耶にも菩提樹あり大塔だあり、初転法輪の地鹿野苑にも古きダメク塔婆や新しき塔婆や学院が建てられました。御誕生地藍毘尼園も近来発掘され、宿院・博物館も建設されつつあり、ご入滅の拘尸那城にも古き塔婆があり、涅槃堂があり、新しき精舎・宿院が建てられてあります。近くナーランダも発掘が進み国際的大学も立ち博物館もあります。祇園精舎や霊鷲山のみはただ雑木林の中に荒廃するがままに放置してあります。
およそ一代聖教五十余年の説法の中においても、ひとり法華経は釈尊出世の本懐を説くとおおせられました。
その法華経の寿量品の中に釈尊自ら分明に、その処を指定して「常に霊鷲山に在り」と説かれてあります。この経文を拝見する時に、霊鷲山の荒廃は仏弟子として耐え難き悲しみであり、苦しみでもあります。なんとしてもこの霊鷲山を復興して「常にここに在って法を説く」とおおせられし金言を、髣髴として実現させぬばならぬと誓いました。

しかしながら微力にして遂に今日まで何も成就することも出来ませんでした。
しかるに去年六月中旬デリーにおいて核兵器反対集会がガンディー平和財団によって開催され、私もまた日本国より招待を受けて参加致しました。
その時、たまたま王舎城復興計画が発表されました。いよいよ霊鷲山が現代的荘厳をもって釈尊在世のご説法の昔を今日に移すことになりました。なんという感激でありましょう。私ひとりのみの感激ではありません。およそ法華経を読める各国の人々、ないし仏教を信ずる世界の人々のために限りなき感謝感激であります。
今晩、日印協会が主催されて私のためにこの歓迎会を開かれ、各位のご参列をいただいたことを深く歓喜いたします。この歓迎会の席において一言インドの諸君に訴えることを許していただきました。
私はインドについてインドの諸君にお話することはおこがましくも思われますけれども、インド独立の父マハトマ・ガンジー翁のお言葉を引用して、私の意見んに代えたいと思います。
今度、私がインドにまいりました理由は、その光栄ある王舎城耆闍崛山の復興の祭典に列席するというだけのことではありません。去年十月以来、中印国境線において紛争が起こり、ついに戦争行為にまで発展致しました。これに驚いて取るものも取り敢えずインドに渡り、一日も早く戦争を終結せしめインドの平和建設のために犬馬の労をとって奉仕せんがためであります。
「非暴力の信奉者が侵略者と自衛者とを区別することは、あえて差し控えるのみならず、かえってそれが義務でさえもある。しかして非暴力の態度をもって自衛者に味方し、結局、自己の生命をなげうって自衛者を救わんがために与えるであろう。彼の干渉は多分その勝敗を早く終結せしめ、闘争者たちの間に平和をもたらすことさえもある」(ガンディー翁『人類愛の律法』戦争目的について、一九三九年十月一六日)私も及ばず乍ら一個のアヒンサの信奉者として、中印国境紛争に関して奉仕したいと願うものであります。
   (昭和三十八年頃)


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霊鷲山

インド国ニューデリーのラージガート仏舎利塔地鎮祭

 インド国ニューデリーのラージガート仏舎利塔地鎮祭
 
私の一代の仕事はインドに仏法を復興する、という誓願に尽きるようであります。
これは日蓮大聖人様の「日本の仏法、月氏へ返るべき瑞相なり」(諫暁八幡鈔)のご誓願でありました。大聖人様ご入滅から今日、実に七百年をへだてました。
七百年間、日蓮大聖人様のこのご誓願は空言になって実現しておりません。
七百年後の今日、ようやくそれが実現しました。その時に私は生まれ合わせて、このご誓願を拝み、自分の誓願として「西天開教」という名のもとに一生をインドの仏事に捧げました。
今日行きますところはニューデリーのラージガートと申します。ここには独立インドを最近造り上げましたマハトマ・ガンジー翁、ネルージー、これらの人々のお墓があり、その傍に仏舎利塔を建てたいというお話が前首相のデサイ氏に受け入れられ、いよいよこの10月2日のガンディー翁の誕生日に地鎮祭を行う予定でありました。
しかし、この方は7月15日に首相の座を下り、チャラン・シン氏が首相になりました。
別にこの方もこの事に反対ではないのですが、事務的な手続きがそこまで進まなかった
ようです。けれどもすでに宝土は決まっております。
この10月2日にはラージガートに大統領も首相もみな集まり、生誕祭の式典を催します。
この式典の主催はインド政府ですが。「南無妙法蓮華経」の唱えの言葉から始まっります。

そこで私の出発に前後して日本から巡拝団が参りますが、これに参列いたします。
その後、地鎮祭とは言えませんが予定地を拝んできます。これがデリーの仕事であります。
相手がインドの政府でありますので、こちらの思うようにばかりもいきません。時が来るのを
またねばなりません。 (1979年9月28日)


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ニューデリーの仏舎利塔 

マハトマ・ガンジー翁と祈り(2)

 それが近頃になりましてインドはいつも戦争ばかりしております。困ったことであります。最近、私はインドへまいりました。そしてガンディー翁の跡を継いでいるヴィノバという人に会いました。この人は私たちのことをよく知っていて、私に百姓のできるお坊さんをインドへ寄越して欲しいと頼まれました。
農業を指導して、お祈りをする人と言いましても、ちょっと見当たりません。
で、送れずにおります。そこで私は話ができませんからヴィノバに手紙を差し上げました。その中で私は「ガンディー翁が在世の頃は人が大勢集まる所では必ずお祈りがあった。それが最近ではなくなってしまった。」と言うことを書きました。ヴィノバはバラモンの出で、私も何度かお話しの席に出ました。
けれども、そこではいつもお祈りがなくてお話があります。
現代のインドにおいて最も大切であるべきこのお祈りが失われていることを、私は悲しく思いました。これは悲劇であります。仏様神様を拝むことが軽視され、代わりに黙祷なんていうことを採用して、お話の前に形式的に目よています。簡単でうおいようでありますが、この祈りが廃れてきた現象はよ喜ぶべきことではありません。
ここに今日のインドの間違いが兆しているのです。武力をもって戦争をやり、血を流して自分の言い分を通そうとしても、それは成功しません。こうした考えは、もはや西洋人や日本人と少しも変わりません。修羅根性であります。
この争いを食い止めていくのがお祈りです。仏様神様の前にまず謙虚な気分を作っていく。この肝心なことがインドにおいて廃れて来たことが、今日のように武器を取って事を解決仕様とする態度になっているのです。
ガンディー翁はお祈りをすればやがてインドは独立すると言いましたが、当時はほとんどの人が信じられなかったのです。いつも疑いをもっていました。亡くなったネルー首相がこれを信じきれなかった。インドは一兵も持ってはいけない。軍隊は絶対に置くべきでないと言うガンディー翁の意見に対し、ネルーさんは騒動が起きた時、それを鎮めるのに軍隊がなくては鎮める事が出来ない。お祈りをしていれば鎮まるなんていうことは信じられないと言って、結局、それでガンディー翁と意見が分かれてしまいました。
ガンディー翁の言葉を空論として、みんなはネルーさんの考えを支持しまた。
ところが軍隊と言うものは持ったが最後、どんどん大きくなって行きます。軍人はわがままになっていきます。日本でもそうでしたがインドも同じ事をやっております。最近のインドネシアが良い例です。軍隊が力を頼りに威張り始めると、とても手がつけられたものではありません。
人々は側にもよりつけられたものではありません。こうした気分になりますと必然的に戦が生じてきます。敵を侮り、自ら驕ります。こちらの言うことを聞けという気分になり、それを力で推し進めていきます。そして戦が絶えず、世の中が乱れていきます。
日本は戦に敗れました。しかし今また自衛をするんだと言って軍隊を養っております。自衛というのは戦を意味します。戦によって今日、国民が守られていくという事実は何処にも見当たりません。
ベトナム戦争でも一番大きな被害を受けているの者は、女・子供たちです。守られるべきはずの人々が一番多く殺されております。どこえ訴えようもなく泣き寝入りのほかしょうがない現状であります。戦が起これば国民は守られるのではなく、みんな殺されます。
武器を持たねば殺されるというなら、それで殺されればよいのです。拝んで殺されていかねがならない。祈っている者に爆を投下しません。相手も手を控えねばならなくなります。これが人間の文明というものであります。
人間はもはや戦争手段において行き詰まりました。これからは新たに生きていく道を求めねばなりません。それは平和の道を求めることです。国際的に平和を作っていくことです。政治家は平和を作らないで戦争を作ります。その政治家の創り得ない道を目指して、われわれは心の平和を作っていかねばなりません。これが我々国民一人一人の仕事です。
この力はやがて日本国の大きな力となり、世界の利益となっていきます。現代は人を殺すことが勝利となる時代ではありません。

浄心にわが心を信じ、仏様神様の存在を信じていく。無限の絶対の力を信じていく以外に、人類が救われる道はありません。平和に我が心を静めていく力、これが一人一人の中に宿るとき、真の世界平和は自ずと築かれていきます。
                         (昭和四〇年頃)


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マハトマ・ガンジー翁 
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