藤井日達上人

顕仏未来記(内相承)

顕仏未来記(内相承)
只今拝みました顕仏未来記と申します御妙判は、御祖師様が仏様のお説きなさった法華経の中に、未来の仏様が亡くなられた後の世の事が指図されてあります。それを書き現したと言う題号の意味であります。これは弘長元年伊豆の伊東に御祖師様が流罪せられました。その伊東の所で流罪の間にお認めなさいました。
その未来記の中に、お釈迦様が法華経をお説き遊ばされた。これが始まりであります。その次に天台大師は支那の漢土に生まれられましてお釈迦様の教えに従って法華宗をたすけて漢土に弘めて居る。この法華宗をたすけて漢土に弘めたと言う事が、宗と言うものは中心を示すものであります。お釈迦様の一代の教えの中心が法華経による所から法華宗と申します。このその次に日本の伝教大師。比叡山の一家は漢土の天台大師に受け継いで法華宗をたすけてこれを日本に弘めたと言う。これは天台大師のお言葉でありまして、それをそのまま引かれます。そうしますと法華宗と法華経を中心にした仏教と言うものは、お釈迦様に始まって漢土の天台大師は支那に弘め、日本の伝教大師は又法華宗を日本に弘められました。これで三国三師になります。インドのお釈迦様、それに漢土の天台大師、それから日本の伝教大師、三国三師になります。そこで日蓮聖人様が、又自ら恐らくは、安房の国に生まれた日連は、三師に次いで法華宗を弘めて日本国に弘めるとか、漢土に弘めるとか仰言って居りません。「末法に弘通す」と書いてあります。末法と言うのはお釈迦様が亡くなられた後二千年を過ぎて後の時期、末法万年。その末法の時代に法華宗を弘める。国は指してありませんが、これは一閻浮提に弘めると言う事になります。一閻浮提と言えば世界中のことであります。世界中に末法万年の宗教として法華宗を弘める。で、お釈迦様が天台大師、伝教大師に続いて日蓮聖人自ら加わって三カ国の中の法華宗の同志が出来ます。三に一を加えて三国四師となる。仏教の受け継ぎ方であります。これがお釈迦様に始まって天台大師、それから伝教大師、その次に日蓮聖人。
後の人はその宗旨をお釈迦様の宗旨でない宗旨を弘めました。それは弘法大師にしましても、大日如来なんて言うものを作り上げてそうしてお釈迦様をのけものにして仕舞いました。無明の神力などと、お釈迦様は迷った人間である、そんな事申します。そうすれば仏教ではありません。仏教と言う広大な素質を利用して、外道の宗旨を作った。
南無阿弥陀仏も仏教の様であります。けれどもお釈迦様を頼んで助けていただくのではなくて、お釈迦様を捨てて極楽西方の方へ行きます。そして阿弥陀様に助けて貰うと言う。これもお釈迦様の仏法から出て、お釈迦様を捨てて外の者を拝んでおります。これで正しい仏法ではない。こう法華宗を中心にした日蓮聖人様が仰言います。
法華宗はお釈迦様の御誠諦を明らかにします。如来寿量品、如来の秘密神通の力、それを説かれた。それを仏法を説かれたお釈迦様の誓願救済、神通力が説かれてあります。阿弥陀の話でもなければ、大日如来の話でもない、不動様でも何でもありません。そうした時にこのお釈迦様の教えが末法の世に弘まる。それは世界中に弘まる。漢土とか日本とか国土を制限しません。弘まる時間はお釈迦様が亡くなられて二千年以後。そうして後万年の後までもこれが宗教としてお釈迦様の宗教として伝わって、そこに日蓮聖人様が自らの道を仏教の上に、仏教を弘める上に、お釈迦様を中心にしたお釈迦様の仏教、それを四人よりだしてお釈迦様に始まって天台大師、漢土の天台、日本の伝教、そして又日本ですけれど日蓮聖人、これを三国四師となる。四人の導師があります。けれどもこれもお釈迦様の南無妙法蓮華経というこの宗旨を立てられました上からは、外相承と申します。内心の相承では、天台大師から相承したのでもなければ、伝教大師から受け継がれたものでもない。日蓮聖人独自に受け継がれた。これを内相承と申します。それは日蓮聖人、上行菩薩という法華経の如来神力品に出てみえます、その上行菩薩に受け継がれました。上行菩薩は、お釈迦様からこの南無妙法蓮華経を付属された。末法の時代にこの南無妙法蓮華経を弘めよと言う付属されたというような事が法華経の如来神力品に出ております。
そこでその南無妙法蓮華経は日蓮聖人直接、上行菩薩から受け継がれましたけれども、上行菩薩と言うのは、今はどこにも居りません。お経文の上に見えて居りますだけであります。それで上行菩薩を通してお釈迦様から直接南無妙法蓮華経を受け継がれました。それは法華経の如来神力品という御経によってそう定められました。これを内相承と申します。それで日蓮聖人様の仏教は何よりも南無妙法蓮華経を唱える事、これが伝教大師でもなく、それから天台大師でもなく、日蓮聖人独自にお釈迦様から直接受け継がれた法門、これは内相承と申します。南無妙法蓮華経は簡単に誰でも唱えられるから、容易い宗旨の様に考えられます。そうではありません。仏様の末法を救う末法の衆生を救うただ一つの宗教としての南無妙法蓮華経。それを弘めるのに特別の菩薩を呼びいだされて、お経文では授けられております。けれどもその上行菩薩は、人間世界に今現れて来ません。上行菩薩は人間界に現れた時に、南無妙法蓮華経を弘めます。お釈迦様の御経の本懐、そうして末法の一切成仏の大道。それが南無妙法蓮華経という。
幸いにしてこの大法に御縁がありました。けれども、地湧の菩薩の出現にあらずんば唱え難き題目なり、とあります。この南無妙法蓮華経を唱え、南無妙法蓮華経を持って行く事は地湧の菩薩、お釈迦様の過去世遠い昔からの御弟子が末法に生まれてこの御題目を皆に伝える、この時には凡夫の姿を示します。凡夫の姿を示しながら凡夫の中で南無妙法蓮華経を弘め、それは畜生を救う時には畜生の姿を示し、さまざま形はうけ変えられて衆生を救われます。その中に南無妙法蓮華経を末法の時代、今日に弘める者は上行菩薩を上首として、六万恒沙の眷属と言いますが、恒沙のガンジス河の砂の数、あれが六万の恒沙を合わせた程の御弟子が付いております。その人々が様々な形を変えて、末法の時代に人間界に生まれて、南無妙法蓮華経を弘める。そう云う事であります。
(昭和五十二年九月三十日 仏足山)

唱題三昧

唱題三昧
御断食の御修行が明けまして、お祝いをいたします。御断食中は十四時間坐りづめで、そして、御題目を唱えづめで、お太鼓を打ちつめました。同じ事を十四時間も繰り返すと言う事は、非常に困難な事の様であります。けれども目出度く御修行が終わりました。終わりました後になりますと、今までの御修行以前の体とは体が大分作り変わりました。気分が、従ってすっかり変わりました。で、これは御断食をした人でないと、あるいは、わからないかもしれません。
私の肉体の、まあ足が少し不自由になった様でありますけれども、まあまあ、自由がききます。で、世間で言えば、まず老人の方で若い人ではないようで、それでいて、まだやっぱり若い人について、何かと変わった仕事の手伝いが出来ます。で、この秘密は、やっぱり御断食が良かったかと思われます。
私、少年の日は、わりと病弱でありました。学校も従って休むと言う日がありました。晩年になって余り休む日なんてものは、無くなって仕舞いました。これは、御断食修行が良かったように思います。皆様方も、これを勤めていただきます。皆様方の体の改造、精神の革命向上と言いますが、一段、梯子段を精神的に登る事が出来るようであります。
来月は十二月であります。一週間の御断食が、いつも例年、日本山では勤める事になりました。ここでも勤めます。私も勤めます。一週間と申しましても、やっぱり中日、ちょっと、梅湯を、それから野菜をいただきます。そうしました後の三日は、それはすっかり楽であります。この食べ物から離れて行く、欲から離れて行く、これが苦しみの様であります。
食べ物の事を、余り気にせなくなると、御断食も楽に出来る。そうして、心に色々ごちゃごちゃとした事を考える閑も何も与えられずに、御題目ばかり唱えねばなりません。
インドの言葉で三昧と言う言葉があります。仏法修行の上には、三昧に入らねばならない。あの方便品に「その時に世尊、三昧より安詳として起こって、舎利佛に告げたまわく」あの、序品の間は、お釈迦様は、三昧に入って居られました。一言も序品の中にお釈迦様の言葉は出ておりません。初めて方便品になって「その時に世尊、三昧より安詳として起こって、舎利仏に告げたまわく」これが法華経のお釈迦様の御説法の口開きであります。三昧に入ります。それは心を他の縁から断ち切って、一筋に一つの事を思い極めて行く事であります。心が一つの事を思い極める為に禅宗は座禅をします。けれどもただじっとして居るだけで眠くなります。だいたい禅宗のお坊様方は居眠りをしておるようであります。で、三昧でも何でもありません。居眠りであります。けれども、居眠りでもですね、暫く我が心を動かずに居る事は、やっぱり御修行として良い事であります。禅宗の中に茶人も出来、それから学者も出来、書家も出来、色々な精神的な人々が禅宗の中に出ました。絵も書ける、字も書ける、三昧に入る事は良い事であります。
今の学校はただ、耳から入る、目から入る学問だけで、我が心の中に一つ、光を灯すという事がありません。それで自己を失って仕舞いました。自分が何やら分かりません。ただ見る物に惹かれ、聴く物に動かされて、自分と言うものが、主体性のない人間になってしまう。
三昧に入る、入らねばなりません。十四時間、ま、居眠りをしましょうけれども、御題目の中に眠って居ると、御題目から離れません。太鼓の響きの中に眠って居る。それで、その自然、法華経の三昧に入らざるを得ません。他の事、考える事も、見る事も出来ません。それがどうも、苦しい様であります。何か、キョロキョロして、第一外に出ることが非常に開放されたように嬉しくて仕方がない。これが間違いであります。この心を静めて居る事、ここに、心が静まるところ、そこに私等が自ら喜びを求めて行かねばならない。気があちらこちら散る事が、喜びであってはいけません。
さて、その法華経を修行するのに、様々な道がありましょうけども、私等に残された与えられた道は、声も惜しまず唱えるなり、南無妙法蓮華経を大きい声して唱える事であります。で、口の中で念じて居れば、同じ事だと思うのであります。そうすると、もう一つ悪いのは、御題目は何べん唱えても同じ事なんだ。それで一ぺん唱えればいいんだと言う、そう云う邪見な事を言い出す者、考える者もある。御題目の中に私等が生きて居る。そう云う考え方に変えていきますと、この身さながらその御題目の一つの現れた働きになります。尊いお仕事が出来ます。で、この日拝みました御妙判、我が身法華経の行者ならば、と言う前提の下に、そうしたならば、霊山の教主釈迦牟尼仏、宝浄世界の多宝如来、十方分身の諸仏、それから下って世界創造をした梵天・帝釈天王、それから海の神様、龍神様、何もかもですね、この法華経の行者の周りにおいでなさると言う。それは水があれば魚が住む、木があれば鳥が来る、法華経の行者のいます所に、仏様も、それから龍神も、何もかも皆集まって来ます。そうすれば「この所は、諸仏、菩薩の住み給う功徳聚の砌なり」と、功徳聚、戒壇であります。仏様を初めとして、皆、行儀良く居並んで居る姿であります。
どっか集まった所、それが具体化しましたものが、この道場となり宝塔ともなります。
根本は「我が身、法華経の行者ならば」その前提がいる。我が身、法華経の行者、その我が身法華経の行者、それは、えらい遠い所にあるのでない。まず御題目を唱える、そこにあります。そのお題目を唱える中から、どこまでも深い法門が展開して行きます。それと共に、この社会的な、現実的な様々な活動が、お題目を唱える中から生きて来ます。出て来た例が日蓮聖人様にあります。
(昭和五十二年十一月四日 仏足山)

仏教国

スリランカは、世界の中でも最も立派な仏教国であります。そして、古い仏教の遺跡も保存されてあるとともに、新しい仏教の信仰が続々と指導されております。
スリランカの中でも、教主釈迦牟尼世尊が、自らこの地においでまして、「大乗入楞伽経」をお説き遊ばされた。それがスリパーダのお山であります。スリパーダのお山は、お釈迦様の御身足跡が残っているということで、全国の人々は仏教信者のみならず、みんなこのお身足跡を拝みに参詣致します。そのスリパーダの神聖なるお山に、外国籍の私が発願致しまして、御仏舎利塔を建てたいと申しましたら、このランカの関係の御出家の人々を始めとして、みんな、ことごとく、協力して賛成していただきました。ここに御仏舎利塔を建てることが出来るようになりました。
私は四十余年来インドに布教しておりますが、インドのビハール州王舎城霊鷲山に御仏舎利塔を建てることができました。けれどもそれが、ヒンズー教の嫉みを受けて、インド人の自尊心を汚すと言って、ついに日本山の布教は妨害されることになりました。
ネパールのルンビニ苑は、お釈迦様のお誕生地ですが、ビルマのウ・タントという人が、先年、国連の事務総長をしておる時代に、あそこが荒廃しておりますから、その復興したいと思いまして、先年、ルンビニ苑の復興を計画しましたが、ルンビニ苑から三マイル四方は、建物を建ててはいけないということにになりました。それでは仕方がないから、三マイル外に建てかけましたが、それも禁止されました。引き続いてポカラという観光地で、その土地の人が宝塔を建てたいというので、これに協力しました。
その宝塔を建てた土地の人は、一八ヶ月間も牢に入れられました。日本山の出家は国外に退却させられました。また、建てた宝塔は、知事が警察を使って、ことごとく壊してしまいました。
そんな中で、最後ランカに参りましたが、このランカはお役所をはじめ仏教徒の指導者方がこぞって、この仏舎利塔建立に協力して頂きました。それに従って、一般の民家もみんな協力して頂きました。そのために、思いがけなく、早く、この仏事が成功しておるようであります。これは日本の人々のために、仏教国というものが、仏教民衆というものがいかに親切にしてしてくれるかを知りまして、今度は大挙して仏舎利塔の落慶供養に参詣する準備をすすめています。
昭和五二年九月二一日 コロンボ空港


20110608-0224_13.jpg

スリランカ国スリーパーダ御仏舎利塔

聖書の神

【聖書の神】  昭和四十九年(一九七四年)
 此の所北米合衆国の首都、華盛頓(ワシントン)の日本の仏法の道場を開設する所以は、アメリカの国家権力が実行しつつある戦争政策、就中アジア侵略戦争政策とアメリカ国民の信奉せるキリスト教に就いて聊か疑問を提起して、人類の希望する天下泰平・国土安穏の建設に貢献せんが為である。

旧約聖書 創世記 第一章に曰く
「一、はじめに神は天と地とを創造された。
 二七、神は自分の形に人を創造された。則、神の形に創造し、男と女とに創          造された。」
創世記 第二章に曰く
「一、こうして天と地と万象とが完成した。
 七、主なる神は土の塵で人を造り、命の息を其の鼻に吹き入れられた。
 それで人は生きた者となった。」
 創世記 第三章に曰く
「一九、あなたは顔に汗してパンを食べ、遂に土に帰る。あなたは土から取れたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る。」

 苟も聖書を信ずる者としては、主なる神の此の如き人類創造の説を信受するであろう。是に由って其の信ずる人の人生観が成り立つが故に、等閑に付す可からざる問題である。
 神は自分の形にに似せて土の塵を取って人を造り命の息を其の鼻から吹きこんだので人は生きた者となったと云うことは、凡そ人類は一種の土で造られた生命有る動物であると云うことになる。それだから、生きんが為に労働して食物を作って食べねばならぬ。食物を食べた後は但だ死人で本の土の塵に還元されてしまへばそれでおしまいになってしまう。
死んだ後の未来世の問題には全然関係が無い。是の如き人生観は現代の唯物論者の説く所と何の相違も無い。
聊かも人類の人類たる所以は土の塵で造られたからでも無く、呼吸をするからでも無く、労働して食物を造って食べるからでも無く、死んで土に還るからでも無い。人類は精神的存在として死後未来世の生命を考える為に其の特徴が有る。それを考えるものが則宗教である。主なる神の創造は但形而下の物に局て形而上の者を創造して居ない。人類創造の初めに何故に神の心を人類に吹き込まなかったのか、是が主なる神の重大なる人類創造の手落ちである。此の創造の手落ちに由って人生観が永久に低下し堕落して往かねばならぬ。
更に人類創造に関して主なる神の重大なる過失は、残酷なる女人創造の乱暴である。

創世記 第二章に曰く
「二一、そこで主たる神は人を深く眠らせ、眠った時に、其のあばら骨の一つを取って其の所を肉でふさがれた。
 二二、主たる神は人から取ってあばら骨で一人の女を造り、人の所へ連れて来られた。」
是の如き女人創造のは現代医学上、行われつつある生体解剖手術である。人体に全身麻酔を施して、苦痛を感ぜ無いようにして、生きている人類の身体を妄りに切開し、其のあばら骨をえぐり取ったと云うことが、聖書を信ずる者として、人類社会に冷淡に血の歴史を綴らしめたる根源であろう。
欧羅巴諸国が不断に国際戦争を行い、欧羅巴に発生した近代国家が軍備戦争の大集団となったのも、其の根本は神の助骨刳取(えんしゅ)にあると想われる。
凡そ人類社会に於いて殺人戦争を行う者は男子であり、平和を願う者は多く女人である。平和の使節として女人を造るには、須く花を取って女人を造るべきであった。

旧約聖書 創世記 第六章に曰く
「五、主は人の悪が地にはびこり、総て其の心に思いはかる事がいつも悪い事計りであるのを見られた。
 六、主は地の上に人を造ったのを悔いて心を痛め、七、
 七、『私が創造した人を地のおもてから拭い去ろう。人も獣も這う者も、空の鳥までも、私は是を造った事を悔いる』と云われた。」

 地上の一切の生命有る動物を一時に地の上から拭い去って全滅せしむるとは、まことに恐ろしき神の呪いであり、恐ろしき神の仕業である。
人に病が有るから薬が有るが如く、人に悪事が行われるから教化があり、人に苦悩が有るから救済が有る。人の悪が地上にはびこるのを見て、全滅を計画する已然に、なぜに神は教化を為さなかったか。人の悪が地上にはびこるのは何時迄待っても止むことはない。
これが人類社会の現実である。それ故に全滅を企てるならば人類は永遠に神の呪いの中にあらねばならぬ。神なるが故に一切衆生を総て生命有る者を殺害し、全滅せしめても、それは犯罪とはならないのか。神の殺害全滅が犯罪とならないならば人類が殺害全滅がを行っても又、犯罪とはならないだろう。此人類全滅の神の呪いは今日キリスト教国を称する北米合衆国に由って完全に継承された。
第二次世界大戦の終末期に日本の広島と長崎とに原子爆弾を投下したのは、則其の第一段階である。爾来アメリカは原子爆弾を偽って平和の守護神と称し、国力を挙げて原爆水爆核兵器の開発蓄積に努力しておる。それはやがて人類全滅の道具となる。又、ベトナム帰還兵の証言の中に、アメリカの絶滅戦が証言された。
「我々は厖大な量の通常兵器・数十万の軍隊・ストレンジラブ博士の新兵器をつぎ込みました。我々は何の武器も持たない国に対して空軍を使い、海軍を使いました。それでもまだ満足しないで戦争はまだ続いており、ベトナム人はまだ戦い続けています。それは絶滅戦と呼ばれます。
総ての戦争は絶滅戦です。ベトナムのような農業社会では絶滅戦と云う場合、但一つの事を意味します。抵抗の手段の破壊、則人々を抹殺する事です。我が国は我が国が彼の国に押し付けようとしているのに、ベトナム人が抵抗するのをやめせるにはどれほどの数のベトナム人を殺す必要があるかに就いては、極めて系統的に目標をさだめました。私の考えでは是は政策です。」

旧約聖書 創世記 第六章に曰く
「十一、時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。
 十二、神が地をみられるとそれは乱れていた。総ての人が地の上で其の道を乱したからである。」

「暴虐が地に満ちた。」とは北米合衆国の現在の社会状態である。
然らば神の呪いを被って崩壊し全滅すべき運命はアメリカに巡り来つつある。今しばらくアメリカの代表としてニューヨークに就いて一九六八年の犯罪を挙げて見よう。強盗が五万四千四百五件、一日平均一五〇件、東京の百五十七倍、ニューヨークで其の携帯品を盗まれないように注意するよりも、盗まれたならば、又買えばよいと考える方が一種の生活の知恵であると云はれる。
殺人が九〇四件、毎日平均二人が殺されつつある。殺人も爆発も大抵警察は呼ばない。秘密に殺されて蒸発し殺人罪として報告されない例は多いから、実際の殺人罪の件数は更に多い。戦争中のベトナムと、平時のニューヨークと比較して何れが危険であるか分からない。
人が殺された時、犯人の中に警察が混じっているのが常識であり、殺された者は殺されっ放し、殺した者は殺しっ放し、是が全く普通の出来事である。
強姦事件は一八四〇件にして、毎日平均五人の女性が暴行されている。東京の六倍に当たる。日本国に於いても終戦後、進駐軍兵士に関して日本の女性が暴行される件が書物になっておる。
乞食の数は、戦争に由る避難民の溢れるサイゴン市中よりもニューヨークの方が余計に目に付く。
犯罪件数の多いことはニューヨークが、そしてアメリカが世界第一である。
アメリカ史は最初から現在に至る迄の重要のテーマは西部開拓史に見られるような無法と絶えざる暴力である。此のテーマはアメリカが地球上で重要な位置をしめる国となっても変わるものでは無く、寧ろ以前にもまして重要なテーマとなっている。
現在のアメリカは人類史上未曾有の最大の暴力を海外で振るった事実の為に、精神的にも道徳的にも倫理的にも経済的にも破綻を示し、東南アジアの侵略がアメリカの崩壊をもたらす凶兆となりつつある。

旧約聖書 創世記 第六章に曰く
「一三、そこで神はノアに云われた『私は総ての人を絶やそうと決心した。彼等は地を暴虐で満たしたから、私は彼等を地と倶に亡ぼそう。』」

 ノアの洪水を起こした神は正に審判の神にして救済の神では無い。大洪水に由って突然溺死した一切の動物、就中人類等は何処で救済されるのか。神の仕事は、悪を見て審判して溺死させるのが究極の仕事であるか。凡そ宗教は未来世の救済を約束するものである。生命の永遠性を信ずる時、もし未来世の救済が約束されないならば宗教的には失格の神である。
悪事を為す者を見て之を亡ぼす事は、悪魔の仕事と其の殺生全滅に於いて区別は無い。審判の神は、暴虐に満ちたる現代を滅ぼす神にして断じて現代を救う神では無い。
現代を救う神は悪を転じて善となす善悪不二の妙理を活用する神で無ければならぬ。暴力殺生を禁じて非暴力不殺生の一戒を持つ神でなければならぬ。
或いは人は私を目して神を瀆す者と云うかもしれぬ。
然し私は聖書の神を指して人を瀆す者と云ふ。



20100719-CIMG0223.jpg


台北 花市

キリスト教

【キリスト教破拆】五十四年十二月二日 ミルトンキーンズ
第一に悪いのは、最初土を捏ねて息を吹き込んだからアダムが出来たと言う、其れは其れで判る、そうかもしれません、その次に、アダムが一人おって困るから女を造ってあげる、又、その土を捏ねて息を吹き込めばよかった、それをそうせずに神様がアダムを眠らせた、麻酔をかけて生体解剖をやった、そうして助骨を1本追ったんだ、切り取ってイブと云う女を、人をこしらえた、此れが人間創造の初めから血を流しておる。此処に平和が来る筈が無い、神様が人を切ったんだ、それから「神を汚す者を石で打ち殺せ」と云う神様のお託宣が有る其れが実現したのが耶蘇である、耶蘇のあの十字架は、神を汚したからと云う裁判なんだ、ああいう悲劇を作る、その耶蘇の前にモーゼと云うのが出て、モーゼが神様から十戒と言うのを受けたという、十戒の中に不殺生戒が抜けているだろう、それから耶蘇が十二人を各地に派遣する「汝等万国に行って、此の福音を伝えよ、」と、山上の垂訓、その中に不殺生戒が無いだろう、それからもう一つ無いのは、耶蘇が誕生する時に天文を見る者があった、耶蘇の誕生する所へわざわざ色々宝物を持ってきた。印度辺から行ったという、何処から行ったか知らんが、そう云う事、ところがその噂を時の其処の王様が聞いた「此れはどうも大変だ此の次に王様になる子が生まれたんだ、わしの位を奪うんだ、そんならその生まれた日は大概解っておる、誰か解らんが其の内にその頃生まれた幼児を全部殺してしまう、」それで幼児狩りをやった。耶蘇が誕生した為に、何の罪も無い他の子供が全部殺された、そうして其の神様が耶蘇には「早く此処を発て」とお告げなさった、自分は逃げた、此れで世の罪を贖えるかい。*****中略*******それで今、耶蘇教と対決する時は、此処の筋を持って、此れでいいのか、御釈迦様の御誕生と比べて見る、けれども其れはやがて向こうの人方の信仰を変えさせる時の話だ、けれども今は人類が最後の宗教を求めておる、其れには、血の流れた宗教ではいけない、御釈迦様の一族が全滅された事がある。それでも自ら其の場に行きなさらんけれども徹底して平和を造って行くには戦争に加わって良し悪しを言う訳にも行かない、御釈迦様が自分の一族が滅びるに知らん顔して祇園精舎に留まんなすったと言うことを非難する者もある。それは一方の見方だ、けれども絶対に戦争に加わらなかったのとは事実だ、出家がね。今は戦争で勝つ宗教でなくて、世界に平和を作る宗教を私等は御祖師様から伝えて来た。

末法救済の宗教

神を涜す者
現在のアメリカは人類歴史上未曾有の最大の暴力を海外で振るった事実の為に、精神的にも道徳的にも倫理的にも経済的にも破綻を示し、東南アジアの侵略がアメリカの崩壊をもたらす凶兆となりつつある。旧約聖書 創世記第一章十三、そこで神はノアに言われた(私は総ての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、私は彼等を地と倶に亡ぼそう。)
ノアの洪水を起こした神は正に審判の神にして救済の神ではない。大洪水に由って突然溺死した一切の動物,就中、人間等は何所で救済されるのか。神の仕事は悪を見て審判して溺死させるのが、究極の仕事であるのか。
凡そ宗教は未来世の救済を約束するものである。
生命の永遠性を信じる時、もし未来世の救済が約束され無いならば宗教的には失格の神である。悪事を為す者を見て之を亡ぼす事は悪魔の仕事と其の殺生全滅に於いて区別は無い。
審判の神は暴虐に満ちたる現代を滅ぼす神にして、断じて現代を救う神にではない。現代を呪う神にして、現代を教化する神ではない。
現代を救う神は悪を転じて善となす善悪不二の妙理を活用する神でなければならぬ。暴力殺生を禁じて非暴力不殺生の一戒を持つ神でなければならなぬ。或は人は私を目して神をけがす者と云うかもしれぬ。然し私は聖書の神を指して人を涜す者と云う。
昭和49年6月5日 ワシントンにて

インド独立と仏教復興

インド独立と仏教復興
平和運動を最近しておりましてインデラ首相が困って、監獄に入れた、あのナラヤンという人がおります。
これは、政治家でありまして、ネールの後を継ぐ人だと、その頃、噂を聞いております。けれどもそれは、私らよりもちょっと年が下がるんであります。十ばかり年下であります。私は、ま、そんな人々とは余り親しくお話はしません。誰とも、ま、お話しません。とにかく一緒に暮らしておりました。それで私のする仕事は、塾の人々も信じてくれておりました。
それが為に、インドが独立すると一番先に、この、仏教復興と言う事を計画しました。サンチという所があります。そこに古いお釈迦様のお仏舎利塔があります。で、四大弟子のお仏舎利塔もあります。それもお仏舎利塔、塔であります。
それが阿育王の時代に建てられたと申します。そこに行きまして、指導者がインドに、独立方針をこれから決定します。平和主義を持ってインドは立たねばならない。その指導者となる教え、それはお釈迦様の教えを取らねばならぬ。それならば仏教をインドに復興しよう。こういうことを決議しております。
その波に乗って日本山もいよいよ今度はインドに仏教復興の仕事が出来るようになりました。もちろん他に仏教徒もおります。けれどもか私はそのインドの独立を祈念してガンディーの塾に居る内も、それから山を歩こうとも、街を歩こうとも、みんなお太鼓を撃って御題目を唱えて、インドの独立が出来ますようにお祈りしておりました。その心が通じました。金で売り買いするものでなくて、やっぱり大きい仕事が出来るのは、精神的な仕事であります。私、何も持って来ませんで、あんた方と一緒で、食べ物も有るやら無いやら、誠に、家も何もありゃあしません。そんな中に、日本山が今度は、インドの中心の問題を討論する時に、関係するようになりました。
私も日本に帰っておりましても、やっぱり電報で、あの原水爆、世界の原水爆禁止大会なんていうものを、インドで開きました。その時も私を日本から唯一招きました。参らねばなりません。参りました。
そんな事で、非常にこのインドの仏教復興には、ネール自身が委員長になって、仏教復興を志しました。その第一歩は、私が御祈念しておりました王舎城、そこから復興する。その中に、当時大蔵大臣を勤めたのが、今の首相のデサイであります。それとネールと私と三人。それに州政府、ビハールの王舎城のあります州の総理大臣、それから日本に駐在しておりました大使。日本の事を、ま、良く分かっておるつもりで、この五人が委員になりました。
王舎城の復興計画を始めました。それが一年しない先に、ネールは亡くなりました。それでデサイが今度は又、集会を開きまして、ネールは亡くなったけども、「わしが変わって、これからあの王舎城の復興を実現しなければいかん。どうすれば良いか」と言います。で、それはもう、皆んな私の発言を待つより外、仕方がありません。王舎城の復興は、霊鷲山の復興、あそこにお仏舎利塔を建てる。「そりゃあ良かろう」そういう計画を実現する事になりました。
そうして掛かりましたが、やっぱり、魔性と言うものは、面白いものです。その後、ビハール州は飢饉に見舞われて餓死する者が出ました。動物もですね随分と倒れました。
水が不足します。それで皆んな死んで行きます。そんな中に、御仏舎利塔を建てるなんていう事は出来ないと言う。集会、州の会議を開いて、反対します。首相も、その反対説についていく事になりました。そうすれば宝塔建立は出来ない。そこで、どうにかこれを、実現したいと思うて、デサイに話ました。そしたらデサイが、それは、インドのビハール州やインド政府に迷惑をかけずに、私が一人で建てると言う事を、「あんたが州政府に話して、そうしてこの事を実現せねばならない」そうすれば出来ます。で、デサイが作成しまして、私それに署名して州政府に送りました。で、州政府も、それならば、あの、日本山に建ててもらいますと、そう言いう事で、あの、宝塔を建てました。
その次に、また、「導利ケ丘」というという所へ、これは、阿育王がパトナ・ビハール州から、隣の国の、カリンガという国を征伐しまして、十万人もの人を殺しました。悲惨な姿を見まして、不殺生戒を保つ様になりました。そこも、大切な場所で、そこにも御仏舎利塔を建ててくれという。それは、州政府の総督が頼みました。それで建てました。

和合僧

和合僧 
座をもう少し皆んな前のほうに詰めると、後の人が非常に楽に座られる。前のほうがあまり贅沢に座られたら後の人は窮屈に、ちよっと立って見ている。どんなことか前に座る人が後に座る人の事を心配せねばならない。
これが抜ける。自分の座る所だけ座れば良いと思う。人が何処に座るか考えなければならい。そこに座が偏ってはいけない。本当を言えば、皆んな前に前に詰めるのですけど、そうすると後から来た人の席が楽に取れる。自分の位置をしっかりと定めると大衆が一緒に動きます。自分だけの問題を考えて大衆の存在を無視しますと、ちよっとやっぱり今晩の席みたいのが出来る。大衆と一緒になって動かねばいけない。そうすると、賢い人も愚かな人も一体になる。弱い者も強い者も一体になって動きます。そうすると力強いものが出来ます。これがバラバラになって自分だけ存在しますと、後の者が働こうと思っても力を出す場所がない。みんなの力を総合する。これが和合であります。和合は力であります。一つになっていく。一つになる工面をせねばならない。それには、自己というものを大衆の中に置かねばならない。自分を大衆の外に置いて、批判する、ながめる、それから別に偉くなる。そんな事をすると、後の者はついていけません。離れます。一体になって弱い者、強い者、年老いた者も子供も一体になって動く、それでお題目ばかり唱える。これは一体になり得ます。座席もそう、食べ物もそう。部屋もそう住居もそう、艱難もそう、喜びもそう。一体になって動く工面を考えねばいかん。
(昭和五十二年九月二四日 仏足山)

大慈悲方便

【一閻浮提】
 日本山の教団は、僧尼の破戒、無戒の科(とが)に由って破壊することは無い。天魔外道の怨嫉に由って破壊することも無い。もしこれを破壊する者がありとすれば、空閑に住して経を読み、禁戒を持って、自ら勝想を生じ、他を下して視て、他の過失を説き、僧と和合せず、歓喜せず、同一水乳のごとくならず、安穏に山中に止住すること能わざる者の出現することである。
栂(とが)の尾の明恵上人、ある時、門下の者不善の僧を衆中より擯出せんと申し出けるを咎められた詞に曰く、何となれども清浄衆の中に居って不善を行う者は、諸天照覧し給えば、己と顕れ、己と退く習いなり、然るを汝、彼の不善を我に談りて彼を擯出せんとするは僧として無慈悲の至りなり。
仏は「実に有ることを自ら見るとも、僧の欠を顕すべからず」と誡しめ給えり、是,大慈悲方便なり、
浅智の能く知る所にあらず、又、「佛弟子の過を説くは、百億の仏身より血を出すにも過ぎたり」
と説かれたり。
又は、一には和合僧の中を云い違うるは五逆罪の其の一なり、四重を犯すに勝れり、汝。既に此の二の罪を犯せり。五逆罪の人の寸時も同住せん事恐れあり」と仰せられた。かくて不善の僧は門下にとどめられ、僧の不善を語りし清浄の僧は五逆罪の人として門下を擯出せられた。

山村行善上人嘆徳章

嘆行善院日財上人徳章

 惟時昭和第十四太才己卯年十月十四日、行善院日財上人の為に荼毘の式典を挙ぐ。
 
上人は我が日本国の鎮めとして、東海に聳え立つ富士の御山の麗なる静岡市の一商家山村文治朗氏の嫡男として生まる。幼少にして家計豊かならぬを憂ひ、登校通学さえも廃して一意専心家運の挽回につとむ。或は双輪の自転車を走らせて日影傾く天城山の嶮難を昇降し、或は一身に貨物を負荷して暁ふかく街頭を奔走す。到る所の華客商店みな此少年の誠意に感じて信用日々に篤きを加え、家運漸く再び興らんとす。父母も歓喜して将来を楽しみ、市中町内の者も亦、歓喜して其成長を俟つ。
 家は代々法華経の信心深く正法を随力演説して近隣の人々に正信を起さしめたりしかば、上人の此の如き家庭の雰囲気の中に自ら法華経の信仰に目覚めなんとす。時、偶々日本山妙法寺の草庵が市の近郊に建つに及び、松谷中佐の化導を被て日本山に参詣し、鼓を撃て妙法を唱ふるに至り、今生一期の方針を額定せんが為に一百日間の暁天日参を発願し、所願満足の朝ひそかに家を出て帝都に上り、日本山の帝都の道場として其名も吉祥寺の付近、三鷹村に開堂供養を営むの時、上人来り投じて俄に剃髪更衣の式を挙げんこと請う。時に昭和二年四月二十八日なり。
 家族は驚いて今日上人に出家せられなば誰れか家運を救ふものぞと強いて上人出家の意を飜さしめんと欲し、町内近隣の有志は、家族に同情し相計って上京し、上人の手を捉り足を捕て強いて郷家に伴れ帰らんとせしかども、上人出家の意を微動だにせしむること能わず、手を空しく引き帰しぬ。是に於いて近隣親族咸く皆怨嗟して日本山妙法寺の化導を悪口して曰はく、日本山は一家族を滅亡せしむる宗教なりや、日本山は牢獄囹圄に入るの門なりや、日本山は正法の仮面を被れる乞食の集団なりや、等と罵りて冴へ瓦石を擲つことさへありき。
 正法には、会ひ難く出家となること又復難し。上人は出家已来其身はたとひ静岡に到ることあれども、魔縁の競はんことを恐れて再び家に帰らずして、偏に仏道を精進し其功徳を父母に回向せんには如かずと願い給ひぬ。
 上人出家の頃、予も亦た多くは帝都の道場に在り、日々相共に市中近郊を撃鼓宣令して立正安国の祈念を発さんと欲す。田無、調布の町、中野、堀ノ内等、希には多摩の御陵、池上本門寺等未だ知らぬ道を同行二人、三人にて終日経行し、或は仏前に法華経を読誦して如来の真文を拝す。やがて皇城祈念の為に市中牛込に家を借りて移り住むや家賃の支弁容易ならず、飲食の供養殆ど絶ふ。遠く飲店を尋ね廻りて、残飯を請ひ、或は焼薯屋に詣て薯の皮を請ひ、是等を包み帰って纔に露命を続くよすがとなしぬ。炎熱の日、風雨の夜、帰り来て包みを解けば残飯は殆ど糊の如くなりぬ。
 毎日市中修行八、九時間経行したる疲労も忘れて、夏の夜の短かきにも、冬の夜の寒さにも同行の人皆床に臥して夢路を辿るの時、上人一人仏前に跪座して孤灯闇き所、手に法鼓を撃ち口に妙玄題を唱へ、低声小音に唱題三昧なり。此間、眼は法華経、御妙判に曝して一句一偈心肝に染めぬ。道心薄き者の一夜とても猶ほ堪え難き所なり。上人一期の宗学解了は実に斯くの如くにして無師独悟せるものなり。
 大正天皇晩年、偶々葉山御用邸の御祈念に関して葉山法難に随身し、葉山、鎌倉、藤沢等の諸所の警察の留置所に展転手洗廻しに抑留せられし時、一死を決定して飲食ふたつながら断ち、唱題修行に余念無く従容として死の期を待てり。此法難に由て、親の勘気も町内の怨嫉も稍々寛ぎ、上人出家の功徳を随喜する所有るが如し。
 上人天性温順の質、妄りに他と諍ふこと好まざれども、一旦正義正信を執っては、一切世間に畏るる所無く、特に官憲の不信横暴に対しては、獅子奮迅の勇猛を発せり。就中去る昭和十年の地久節奉祝行列に加わりて二重橋事件を起しぬ。決死の僧俗六十余名を率いて、かねて禁制せし警戒網を突破し正法祈念の威勢を示せり。
 日本山妙法寺が高祖大聖人の御本意を継いで二重橋の前に御祈念を発してより已に十余年に及ぶ。此間、遠方辺地の行幸の都度、或は北海道に、或は西海道に、どこまでも影の形に添ふが如く、日本山の大衆を率いて凰輦に随ひ、玉体恙無かれかしと祈念せざることなかりき。往くに旅費無くしては数々行脚し、泊る舎なくしては毎に草に枕しぬと雖も一片の赤心燃ゆるが如く、万障の艱難を排して進まざること無かりき。
 行幸啓の時は、凰輦の警護に当る者の間に遂に「日本山係り」と称する一斑を置き、警視庁の内に亦「日本山係」の一斑を置いて注意看視せしむるに至りぬ。是即ち勇猛なる反響なり。此外各地御用邸の在る所毎に必ず皆草庵を設けて常住不断に祈念を凝らせり。海外は且く措く、日本の関東地方の日本山妙法寺は概ね、皇室の御祈念の道場として湧現せるものなり。
 上人の孝心は、やがて父を度して仏門に入らしめ、鴻の台に清浄なる道場を建てて、父をして安住せしめたり。上人の慈愛は親近する者を化導して仏道に入らしめたり。遠くは西天印度に開教せる者及び交戦地の支那各地に従軍せる日本山の徒弟、近くは関東地方の諸弟子達等、熟れも上人の化導を被れる者ならざるは無し。名声普聞衆所知識の人なりけり。徒弟を度すれども皆悉く開教の第一線に送りて上人の身辺には、人手少なく而も用件甚だ繁忙なり。
 西天開教已来日本山に印刷部を設け毎月、西天の消息類を発刊し、或は時に応じて諸種の論説を出版せること既に十年に垂んとす。植字の校正に到るまで寸暇なき上人の手に拠らざるは無かりき。而も出版物の全部は非買品にして施本なり。出版に要する所の出費も亦皆上人の清浄なる護法心の変化なり。日本山妙法寺の法流を疏通せしむること、もし上人なかりせば殆ど望み絶えたる次第なりけり。此点上人の辛苦は予が尤も深く感謝する処なり。
 上人文芸思想に豊なる人に非ず。文は拙、言は訥、字も亦多くを識らぬ人なり。しかれども予が在天十年の間、親族、知己、道友はさておき日本山の草庵に住する者、日本山の弟子檀那と称する者の中に於いて最も多く、最も詳らかに時々の消息法運の盛衰より慶弔の種々につけて消息したる者はげに上人なりき。尤も多忙なる上人は又、尤も多く消息せる人なりけり。
 在天十年故郷の消息とし云へばいずれか懐しからざらむ。されど上人の如く懐しく心慰む消息は無かりけり。道の遠きに志の深く見ると是なり。最近、那須に静養すること凡そ一百ヶ日、其間、上人よりの消息も亦十余通に及ぶのみならず、其身親ら那須に来り訪ふこと前後三度なり。此外那須の随身の人々に対して消息せるもの数通あり。臨終五日まえにも長文の消息を認められたり。上人の文は上人の心のみ、此の心有るが故に即ち此文ありしなり。上人の消息は上人の説法なり。謙下の心を以て無上の法を演ぶ。間然する処無し。
 昭和五年八月二十五日、予西天開教に旅立つや、人ことごとく云ふ、予在らざる後の日本山妙法寺の法運は、内地に於ては衰微すること無くんば幸なりと。然るに上人一張の鼓を撃て一人帝都に止まり立正安国の祈念を断絶せざらしめんことを誓ふ。爾来十年の間二重橋の祈念を一日たりとも欠くこと無く帝都市中の街頭修行も亦、一日たりとも欠く事無かりき。かくて日本山妙法寺の正義の赴く所を天下に光顕し日本山の基礎を額立せしめたり。
 上人出家已来、三鷹、堀切、中野、鴻ノ台等近郊清閑の地に日本山の道場湧現せしかども、是等は何れも二重橋の祈念に便ならざるの所以を以て未だ曾て自ら止住せず。されば上人出家の一期は住むに家なき市中の放浪なりき。或時は割長屋の一室に、或時は物置の片隅に、或時は信者の家に同居して雨露を凌ぐこと実に十余年。若干の仏像、経巻太鼓等を護持し、幾十名かの弟子を率いて幾度展転移住するとも而も、王城祈念の便宜を失うことを欲せざりき。此間信者もあり不愍と云う者もありしかども、苟も上人の宿る処には毎に大法の鼓を撃つが為に心無き近隣の怨嫉を蒙り、追はれ追はれて其の居を移さざる可からざるに至りぬ。
 去年予が帰朝するにあたりても市中になほ予の膝の容るるの道場すら無かりける。日本山の行持は、出家の生活にして、出家の生活は樹下石上、雲所無住の生涯なり。彼の寺門、殿堂の経営は、日本山の正義に非ること分明なり。寺院に止住する僧侶の多きに比して仏法はいよいよ衰微の穴に堕つるなるべし。
 去年の春の彼岸に予が西天印度より帰朝するに当って始終随身給仕し、特に帝都に於ける仏事成弁を以ては自己の使命と覚り、毫も懈惓する所無し。予が今年の春の彼岸に再び帰朝して吉野山入るや又来て随身給仕せんとせしかども有待の依身数々病悩に倒れて起つこと能はざるに到て遂にやむを得ずして医師の治療を受け、苟も小康を得れば又直に仏事に奔走して静養の暇無し。
 四月の下旬予が再び帝都に入りしかども予も亦病魔に悩まされ、穏田の仮寓に師弟二人枕を並べて臥し倶に医師を請して治療を受くるに到りぬ。七月八日予は遂に静養に託して那須の温泉に湯治せしかども上人は帝都に残りて仏事に精進し遂に病を癒すのひまなかりき。那須の随身の人々に対して消息せられたる中に、今年に入りて病患に罹りし数を自ら数えて、十二、三に及ぶとて、一々病名を誌されたり。
 「一、助膜炎 二、腹膜炎 三、賢盂炎 四、腎臓炎 五、肪胱炎 六、神経痛 七、二転捻挫 八、吠傷 九、鼻孔加答児 十、急性胃腸加答児 十一、痔 十二、中耳炎」
 
 自分で勘定して驚きました。或人が未だ活きて居ますかと云われたそうですが実に其通りです。それでも今度は死魔にとりつかれませぬ。起つ時に起たうと思ふております。起ちそこなって生命を永へても詮の無い事です。目と心臓と手丈が患はなかった事は有難い事です。又当分痛い思いをしなければならないかもしれませぬが、今度はそんなに酷い事は無いと思います。今年は病み年でせうから来年は病まないでせう。しかし今病気とかどうとかは余り考へませぬ。痛ければ痛いから早く治さうと思う丈の事です。起つ必要に応じて起ったらよいのですから、今年の内に渡天出来ればよいがとそれのみ思って居ます」已上
 通身是れ病患、五体総て苦悩聚、只僅かに眼と手と心臓とのみが上人の為に病患を免れたりとて歓喜せられぬ。此の如き一身の大患重症の間に於て宛ら身の病患に関せざる者の如く只管病の重きを忘れ、死の迫るを忘れて只管長途の航海、西天に渡らん事をのみ念願し給えり。三障四魔も嬈すこと能はず、五鹿六欲も染まること能はざる大丈夫なり。
 さあれ四大不調にして昏倒失神するも猶ほ安静休養の暇無く、繁忙重畳する時に人の寿命何の縁にてか永らへ得可き。
 去月二十一日付の消息に云はく
「恩師猊下の御慈悲に逆ふやうで実に済みませんでしたけども、健康には留意して居りましたので冷水摩擦や岡崎博士の御指導の旨は守りました。謂はば無理と云ふのは暑気と豪雨の中の撃鼓宣令丈でありませうか。これらに一々気をつかって休んでは一体此仏事はどうなるでせうと思ふと恩師の御慈愛が解ら無い訳ではありませぬが、何卒我儘な此点丈が改める事が出来ませんのでありました。何卒特別の御慈悲に申て見逃し遊ばして頂き度ふございます。
 十一日柏田師と二人倒れました。急性胃腸加答児であります。始は柏田師の方が重かったのですが、私は余病の併発となりまして遂に今日に至りました。四人の中二人迄倒れ、而も看護を要する為に御祈念は只の一人しか続けることが出来なくなりました。」
 春の頃、高須国手上人を諫めて云はく、
 上人今にして静養するに非んば仮令治療するとも其甲斐あるべからずと云はれしに、上人答えて、「たとひ治療の甲斐無かるべしと雖も而も静養する余閑なきを奈何にせん。仮令此仏事の為に倒るることありとも毫も悔る所無し。」と。かくの如くして国手も遂に其精進を止むこと能はざりき。況んや他の弟子檀那等の人々がいかに諫め止むればとて、本より随う気色だにもあることなかりき。
 上人天寿を全ふすること能わず、帝都の仏事を完成すること能はずして猶は壮年の齢にして娑婆を去らせ給ひし因縁は疑ひも無く上人非常の精進の致す所ならずんばあらず。仏道精進して寿命を顧ず、是即我不愛身命、但惜無上道の心地なり。上人の寿命の短かきを慨かざる可からずと雖又上人の精進勇猛なるを学ばざる可からず。ああ、日本山の一門にして有為の法器は相ついでで皆少壮にして娑婆を去りぬ。慨く可きか喜ぶ可きか我それをこれを識らず。
 上人去年発願して曰く、今度の支那事変に処して須く我が身命を棄てて国土の恩を報ずべし。然るに先年楞枷の比丘、比耶頼佗那上人より寄贈されたる仏舎利を以て帝都に広く塔を起てて供養を発さんと欲す。然れば此仏舎利を近衛公爵に奉って護持し供養し給はば、我此身を支那の戦乱流血の地に埋めて正法治国の因縁を結ばんと。予これを聞いて曰く、
 近衛公に仏舎利を奉るはよし死を求むるには非なり。正法の行人には死魔の誘惑あり。我が事すでにに竟るの想を生じて残りの寿命を捨てさしむるなり。強いて死地を求む可きに非ざるなりと。
 然るに今年の五月二十五日機縁純熟し近衛公爵の為に仏舎利分布の式を挙ぐることを得たるに迨んで上人一期の希願略ぼ満足せるが如し。此仏事の後旬日を出でずして支那の汪兆銘和平救国の大義を懐ひてひそかに日本に渡り近衛公爵を訪ふてこれを訴へ決定心を得たり。
 上人是を以て偏に仏舎利分布の功徳現前せるものなりと称していよいよ大歓喜を生ぜられたり。是より上人は更に一歩を進めて帝都の仏事を興し如来の遺身舎利を尊重して鎮護国家の利生を施さんこと、彼の聖徳皇太子の佳例に倣はんと志し、病軀を策励して九月鴻ノ台の道場に詣で十七日間断食修行を勤め仏舎利奉迎の為に年内渡天の機運を促進せしめたり。
 此断食は上人最後の修行なりしか、健康回復の希望は消えて衰弱のみ加わり忽ち病勢進みたりとは雖も断食中に信解品の父子相迎の深義を悟りて大歓喜を生じ、衰弱やや回復したる九月二十四日、那須の仮寓を訪ふて帝都の仏事開宣の為に植村刀自を伴ひ、京都の村雲尼公を訪ね、亜で渡天の許容を求めたり。
 上人曰く、「幼少より無能なりしが偶々善智識に会ふて正法の中に出家修道することを得たり。譬えば、窮子辛苦して周く諸国を流れ遂に長者親父の門に詣れるが如し。皇城の祈念、街頭の修行型の如く日々退転なく勤め来たりといえども只是日本山の年中行事として勤めたるのみ。譬えば、窮子長者の舎に入て諸物を出入するが如し。
 今日漸く、我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ等と誓ひし高祖大聖人の大誓願、応に我が身の誓願となりかはって、天下泰平の祈念の秘要建立の修行の日々其快爾謂ふ斗り無し。是れ全く善智識に会える幸慶なり。立正安国の誓願修行は我が無限の光明遍照界なり。譬ば窮子、長者、親父の一子となりて財宝無量求めずして自ら得たるが如し。」云云
 十月十一日の晩景に予、前後四ヶ月目に帝都に入る駅頭に上人の影を見るべくして然も上人の影を見ず。上人の容態軽からざる為也。予は穏田の仮寓に入る。夜半忽ち上人の危篤を報ず、とかくして明くれば十月十二日高祖大聖人御入滅の霊地池上の御会式に詣で御通夜の修行に障無からしめんが為に、予も床に臥て薬を用ひけるが、上人の容態刻々変り行きて、遂に出る息は入る息を待たずなりぬとのしらせに驚き、直ちに車を藉て淀橋に赴きしが、此時遅く已に道場の中よりは臨終の御題目の、撃鼓の音に和して昌に起れり。
 必死不治の病人のためには良薬も亦変じて毒となるならひなり。上人は自ら治病の手当も怠らざるのみならず、諸方の名医を尋ねて診療を受け一日も早く全快せしめんと藻掻かれしかども、其結果は遂に色好ならずして却て夭折の悲しみを招きぬ。一期の命数限有る所以のものか。最も肝心なる御祈念の責を負へる帝都、最も多忙多用なる帝都の僅かに二、三の随身の看護の裡に上人は遂に大患より大死に到りぬ。看護の人々己が身命に代えて上人を活かさんと務めたりし志もあわれ一抹の煙となりぬ。
 思いきや、十年を経て偶々日本に帰り来るや、未だ少壮の齢の上人の為に臨終末期の水を汲まんとは。
 上人逝て帝都の法運塞らんとす。上人逝て広宣流布の金言も忽ち疑を生ず可きに似たり。上人逝て日本山の正義応に隠没せんとす。法孤り弘まらず、これを弘むる人にあり、其の人今や無からんとす。噫、悲しい哉、痛まし哉、窓を打つ時雨の音も惨として上人の枕辺を囲む人の咽ぶ涙に和するが如し。
 往昔弘安五年十月十二日は高祖日蓮大聖人武蔵国洗足郷多摩川の辺り、池上右ェ門の太夫、宗仲が家に入て御入滅遊ばされし御逮夜なり。爾来六百六十年遠近百万の人撃鼓唱題の声夜を徹して梵天に到る。
 今年昭和十四年十月十二日は行善院日財上人、当時の王舎城たる東京の淀橋なる川崎信士の宅に於て老少不定の掟とこしえに世の無常を示しぬ。上人逝て日本の柱倒れなんとす、上人逝て日本の眼目失せなんとす、上人逝て日本の大船覆らんとす、上人逝て日本国は今日滞涙、滂沱、悲雨瀟々として無窮の憂愁を催ふす。
 一切の大事の中に国の亡ぶるは一大事なり。日本国には近年頻りに三災七難競ひ起り内憂外患交々到るの時、上人涅槃に安住す可からず、速に上々品の寂光の往生を遂げ順臾に還り来て再び身を日域に受け、皇国日本に立正安国の祈念を唱導し、東方亜細亜の光明を揚げて、一天四海皆帰妙法の暁を期し世界万邦を挙げて通一仏土の大観を成就せしめ給はんことを。
  昭和十四年太才己卯年十月十七日

          日本山妙法寺  沙門         日 達 敬白

<< 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 >> 18ページ中10ページ目

カテゴリー

最近の記事

アーカイブ